・人類史で最も重要な年号は1648年の、ウェストファリア条約=1618年から欧州全土を巻き込んで戦われた30年戦争の講和条約がなされた。国際法はこの条約から始まり今に至る。ポイントは、戦争を無残な殺し合いから、ルールに基づく決闘(貴族にだけ許された特権)に変えたこと。この会議で使用言語が、ラテン語から各国の自国語になった(p24、26、69、125)
・3つの法則、1)戦争と平和の区別がある、2)戦時において味方・敵・中立の区別がある、3)戦時において、戦闘員と非戦闘員の区別がある(p25)
・戦争に負けたことは悪ではない、1)疑わしきは自国に有利に、2)本当に悪いことをしたら自己正当化、3)やってもいないことを謝らない、これが国際法の常識(p29)
・アメリカの独立は1783年のパリ条約で承認されたが、当時のアメリカの実態はEUのような「国家連合」南北戦争は、内戦であり南部は犯罪者に過ぎないので国際法は適用しなくてよいと考えている(p33)
・ミランダ警告とは、1)黙秘権がある、2)供述が法廷で不利な証拠に用いられる、3)弁護士の立ち合いを求める権利がある、4)公選弁護人をつけることができる、これを行っていないと公判で証拠として使えない(p36)
・賠償は違法性を前提とした過失責任で発生する(ご迷惑をかけましたと言って払う)、補償は違法性がなく過失がなくても社会的な責任として損失を補償する(お悔やみ申し上げますと言って払う)(p56)
・国際仲裁裁判所が下すのは判決でなく、裁定(判断)、和解案、勧告なので、国内法のような強制力を持たない(p64)
・国際法とは、仁義、もともと王様同志の約束(仁義)として成立したので、実際に守るかどうかの仁義、信頼関係のほうが大事。弱い相手との仁義は守らなくてよい、正確に言えば、弱い相手との仁義を破って、他のだれからも因縁をつけられない仁義は守らなくてよい(p68)
・慣習国際法とは、憲法98条2項で、確立された国際法規のことである(p73)
・世界的な軍縮を話し合ったワシントン会議、欧州の領土問題を話し合ったミュンヘン会談が失敗したのは、すべて大国であるソ連を読んでいなかったから(p89)
・非武装中立で失敗したのが、デンマークとベルギー、非武装中立を宣言したが自国を守る能力がなかったのでつぶされた(p91)
・上海協力機構とは、実質的には、中露同盟。(p93)
・民事裁判は、双方が納得する決着点を判断する、一方で刑事裁判は、被告人の有罪無罪を争うもの(p105)
・東京裁判における最大の問題は、戦争という決闘、すなわち民事裁判を、刑事裁判で裁こうとしたところにある。裁判官が中立国でない時点で裁判と呼べない(p105)
・西暦212年には、ローマ帝国内の全自由民に市民権が与えられた、それまでの市民だけでは軍隊を賄いきれなくなったから(p115)
・800年、ローマ教皇のレオ三世はフランク国王のカールに西ローマ皇帝の帝冠を授けた、これ以後、世俗の王位は教皇によって承認されることになった(p119)
・中世で教皇に苦しめられたことを、国王が自国内でやり始めると、貴族や平民が革命で国王を倒す、市民革命がおきた、イギリス・フランス・アメリカ(p140)
・1856年にクリミア戦争講和条約のパリ条約に調印したトルコは、このとき欧州公法体系に屈して、ここから「国際法」と言われるようになった。それまで欧州には、文明国か非文明国の2つしかなかったが、トルコは非文明国の植民地ではなく、アフリカや中南米の国々とは異なり「半文明国」という概念が生まれる。トルコに続き、ペルシア、ムガール、清と侵攻を続け、不平等条約を押し付けて「半文明国」に落としていった、最後に来たのが日本(p147)
・日米和親条約には、アメリカに対する一方的最恵国待遇が入っており、後から条約を結ぶ他の国に対しても、アメリカと同じ条件で納得してください、といえる思惑があった(p150)
・戊辰戦争では、それまでの政府である幕府と、天皇の錦の御旗の下に結集した新政府側が、それぞれに一定の地域を支配しつつ戦っているので、諸外国から「交戦団体」として認められると、両勢力には戦時国際法が適用されて、諸外国は中立義務が生じる。なので諸外国からの介入を食い止めることができる(p153)
・朝鮮は清国の属国である時点で非文明国、日本が朝鮮と対等の条約を結ぶということは、清朝と同じ非文明国として認めることになるので、清朝にとって格下の朝鮮と同じ扱いをされたというだけで宣戦布告の理由となる(p159)
・1894年7月にイギリスとの間で治外法権の撤廃ができた理由、清国と日本が戦争になった場合、イギリスも居留民保護の必票がでてくる。そのためにロイヤルネイビーを派遣して戦争をやめさせるよりも、日本が国際法を守って居留民保護をしてくれるほうが好都合であるから(p167)
・日清戦争時に、帝国海軍が豊島沖で衝突したときの巡洋艦「浪速」の艦長は、日露戦争を勝利に導いた東郷平八郎であった(p168)
・フランスは、日英同盟とまったく同じ内容の同盟をロシアとの間に結んだ(露仏同盟)、一騎打ちなら中立を守るが、敵に誰か来たら加勢する、世界大戦になってしまうので、イギリスとフランスはそれを嫌って、日露戦争直前から交渉を始めて、日露戦争後に英仏協商を結んだ(p185)
・当時の大使館は、主要国・大国か、もしかしたらその国と戦争をするかもしれないくらい重要な国にしか置かないものであった、日露戦争に勝利した1907年、大国に名を連ねる国々が、日本にある公使館を大使館に格上げした。日本が大国として認知された(p187)
・真珠湾攻撃と同じ日に起きたマレー沖海戦について、イギリスは「宣戦布告前に攻撃した日本は卑怯だ」とは言っていない(p190)
・銃後への攻撃が可能になることは、場所を決めて国家と国家の軍隊が決闘するという、ウェストファリア型の戦争が変貌することを意味する(p198)
・フランス・ベルギー同盟軍が賠償金の代わりにルール地方を占領したが、デモとゼネストに対応できずに占領をあきらめた(p202)
・日本が建国した満州国を傀儡国家というならば、アメリカがイラク・アフガニスタンに、インドがバングラディッシュへ、イギリスがベルギーへ行ったことも同類(p247)
・地政学的には、オランダ領インドネシアを保障占領するのがベストな選択であった(p297)
・日本と本当に戦っていた国は10か国もないが、気が付いたら国際連合の現加盟国50数か国と戦争状態になっていた、国際連合に入るための条件が、「対日宣戦布告」であるから(p305)
・真の意味での線背負うは、1648年から1945年までのあだ花であったかもしれない(p310)