suu3.jp 戻る

summary

先生も知らない世界史 (日経プレミアシリーズ)

先生も知らない世界史 (日経プレミアシリーズ)の写真

・狩猟採集民の方が、農民と比較して栄養状態が良かったと思われる、農業が誕生する前の平均寿命26歳に対して、農業が登場してからは19歳へと下がっていることから(p15)

・農民は狩猟採集民族以上に勤勉に働かなければならない、人類が勤勉になるために農耕生活へ移行したのかもしれない、そうとしか考えられない、これは最大の謎である(p19)

・アケメネス朝ペルシアは、新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人を解放、前525年にはエジプト併合してオリエントを統一するような大帝国であった。(p24)

・イタリアの銀行では、為替・貸付・投資機能が大きく発展したものの、銀行の貸し出しによって通貨供給量が増えるという信用創造制度は発展しなかった。海上保険業が発展したが、確率論を欠いていたので保険料率を計算できなかった(p31)

・地中海では、1570年頃から北ヨーロッパからの穀物輸入を余儀なくされた、オランダのアムステルダム、ポーランドのダンツィヒ、ハンブルクからの船舶数が上昇している、イタリアの船舶は活躍できなかった(p35)

・アッバース朝は、アラビア人の王朝からイスラム教徒による王朝へと変貌(アッバース革命)した、この領土は最盛期には、イベリア半島から中央アジアまで及んだ、この王朝によりイスラム教は、アラブ人の宗教ではなく民族とは関係ない世界宗教になった(p45)

・ハンザ同盟は、ヴァイキングの商業ネットワークを引き継いだと思われる(p50)

・ポルトガルは1444年に海路サハラ砂漠の南に位置するギニアに達した、このためイスラム教徒によるさっはら砂漠縦断航路に依存することなく、直接アフリカ南部の金を入手できるようになった(p58)

・奴隷上陸数は、16世紀はスペイン領アメリカ、17世紀まではブラジル、18世紀はイギリス領カリブ海であった、イギリスの奴隷貿易が他国より多かったのは18世紀のことで、ほとんどの期間においては、ポルトガルがどの国よりも多くの奴隷を輸送、ブラジルに上陸していた(p64)

・イギリス南海泡沫事件の以前にはオランダはイギリスやフランスに投資していたが、それ以降はイギリスにのみ向かうようになった、イギリス国債を購入した(p68)

・ポルトガル海洋帝国は国家の力弱く、商人の帝国であったので、海外領土が征服されてもポルトガル商人の影響力は残った、18世紀末までポルトガル語は欧州言語では、アジアで最もよく話された(p70)

・イギリスはポルトガル海洋帝国のいくつかの領土を自国領にした、ポルトガルが開拓した航路を使用しイギリス船を航海させた、イギリスが金本位制を採用したのは、1703年にポルトガルと結んだメシュエン条約の結果、ブラジルの金がイギリスに流入したから(p71)

・オランダがイギリスに投資したからこそ、イギリスはヘゲモニー国家になれた、ポルトガルがいたからこそイギリスはアジアに進出、新世界で砂糖の生産に成功した、オランダとポルトガルのお陰(p72)

・近世の欧州では、アムステルダムを中心として、価格表・商業新聞などにより、市場の情報がかなり出回るようになり情報の非対称性が少なくなった、その結果、多くの商人の取引リスクが低下した、これは世界ではこの地域だけ、これが欧州の強味(p84)

・フランスの税制は直接税である地租が中心、奢侈品に対する消費税が中心のイギリスと異なり、経済成長により税収は伸びない、フランス革命が起きたのはフランス税制では税収が増えず、国庫がひっ迫したから(p96)

・イギリス東インド会社が長続きしたが、1877年にはインドは直接本国が統治するようになった、東インド会社がなくてもイギリス本国はアジアを直接統治できた、情報のやりとりの時間が短縮されたので(p111)

・日本は中国に銀を輸出したが、輸送において、ポルトガル人、オランダ人、中国人が活躍していて、日本の商人ではない(p117)

・1620年代になると、中東ではキャラバン隊による陸路ではなく、イギリス・オランダの東インド会社の喜望峰ルートの輸送が多くなった、これはオスマン帝国経済にマイナスとなった、胡椒と反対に価格が上昇したのは、綿織物、インドキャラコを輸入するようになったから(p124,125)

・イスラム商業の衰退は、アジアからヨーロッパに輸出される商品が香辛料から茶に変わったことと、欧州の船舶を使うようになったこと(p128)

・1013年にデンマークのカヌート王により、イングランドはデンマークの一部となり1042年まで続く、そして1066年にはフランスのノルマンディー公によるノルマン征服があった、1154年にはフランス貴族のアンジュー伯がイングランド王となり、アンジュー帝国(ブランタジネット朝:1154-1399)となる。イギリスの公用語はフランス語となり、英語は土着の言葉となる、英仏で行われた百年戦争の間の1362年に、イギリスで英語が公用語として認められる(p136、138)

・1603年にエリザベス一世がなくなると、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王1世として即位する、これがイングランドとスコットランドの合同の開始、正式に合同するのは1707年のこと(p140)

・スペイン継承戦争によってイギリスの債務は1600→5300万ポンドとなる、その返済のために南海会社が設立される、1720年にはその会社がイギリス公債を引き受けることになった。南海泡沫事件以降に、イギリスの金融政策は1649年設立のイングランド銀行に集中される(p142)

・イギリスは、まず帝国内部の海運業を自国船で行い、ついてイギリス勢力下にあった帝国内部でもイギリス船を使用するようにした、これがオランダとの違い(p145)

・茶の減税法が施行される以前は、イギリスへの最大の茶の密輸国はフランス(高級茶)、ついでスウェーデン(低級茶)であった(p165)

・イギリスの経済成長率は、産業革命と呼ばれる1760-1830年においては決して高くない。戦争が民間部門の活動を抑圧したため、産業革命を成功させたのは、国境を越えた国際貿易商人の非合法貿易(密輸)ネットワークであった(p167、174)

・重要なこととして、イギリスは1790-1815年の間に、債務国から債権国、外国からの借金ではなく自国の税金で戦争を遂行できるようになった(p172)

・ブラジルーイギリス間の情報伝達は、1820年には62日(帆船)であったが、1851年には30日(蒸気船)、1872年には18日、1875年には1日(電信)となった(p179)

・ニューヨークーサンフランシスコの情報伝達は、1840年の段階では、3か月であった。パナマ地峡ルートにより1858年には46日間、更に大陸横断鉄道により1週間となった(p180)

・イギリスの綿は、北米大陸からイギリスを経てアジアまでほとんどすべてイギリス人によって運ばれた、これによる利益は極めて大きい、海上保険会社としてロイズを使用、これにより益々利益が流入する、これが世界支配につながった(p188)

・世界中が電信でつながれたため、国際貿易の決済のほとんどがロンドンで行われた、イギリス経済の多くが電信で支えられていた、なので工業生産でアメリカやドイツに負けても、電信によりロンドン金融市場で国際貿易決済が行われている限り、問題なかった(p200、201)

・アメリカでは電話が発達してビジネス界で使われていたが、電話では決済ができないのが弱点であった(p201)