suu3.jp 戻る

summary

壬申の乱と関ヶ原の戦い

壬申の乱と関ヶ原の戦いの写真

・関所は3か所あった、越前国・愛発関(福井県敦賀市付近)、伊勢国・鈴鹿関(三重県亀山市付近)、美濃国・不破関(岐阜県関ケ原町)、それぞれ、北陸道・東海道・中山道を通ってくる敵を食い止める防衛拠点であり、東から反乱分子がやってくると想定していた(p18)

・神武天皇が紀元前660年に即位したことにするために、日本書紀では神武天皇の崩御が127歳等、初期の天皇の寿命を科学的とは言えない長寿にせざるを得なくなった(p21)

・現在では、東京と大阪を結ぶラインが大動脈であるが、古代の日本列島は、博多と都(京都)を結ぶライン。交易が盛ん以外に、農業生産力が豊かであった(p25)

・蔑まされていた東の勢力が富の再分配を求めて西の勝負を挑むという構図が、8世紀から16世紀までの日本史の基本的なトレンドである(p28)

・戦いには、戦争に勝つための「戦略」と、戦闘に勝つための「戦術」がある。前者を総合的・長期的な計画・手段とすれば、後者は、限定された戦場において勝利するための具体的・実験的手段である(p34)

・応仁の乱によって将軍家の無力さが暴露されたので、代わって実権をにぎったのが細川氏(東軍)、それまでは、斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が持ち回りで、管領に着くことになっていたが、これを機に独占した、山名宗全らの西軍は室町幕府の実権を奪取できなかった(p37)

・壬申の乱(672年)において、大海人皇子(後の天武天皇)が本営を置いた和ざみ(わざみケ原)こそ、のちに関ヶ原と呼ばれる原野である(p57)

・天武天皇は、即位した翌年、不破・鈴鹿・愛発の三か所に関所を置いた(p63)

・壬申の乱は、天皇の長子と弟が国を二分して争った戦いであり、この後、日本という国の姿は大きく変わった、大王(おおきみ)から天皇(すめらみこと)となり、天皇を讃える神話(日本書紀、古事記)が作られた、日本国という国号もこのころに作られた(p65、66)

・平清盛は、武家で初めて太政大臣になったが、内大臣から直接なっている。鎌倉幕府三代将軍は、内大臣から右大臣に昇進している、暗殺されなければ本筋の出世コースを辿って太政大臣となり、格式では超えていただろう。武家で最初に本筋コースで太政大臣になったのは、室町第三将軍、足利義満である(p72)

・後鳥羽天皇は、比叡山に逃げて尊氏に降伏し、三種の神器を尊氏に引き渡す。足利尊氏は、持明院統(北朝)の天皇を担いで室町幕府を開く(p80)

・武蔵国の国衙は現在の23区内ではなく、府中市にある、聖武天皇の命による国分寺も、現在の国分寺市に造られた。武蔵国で随一の武士団は、、平氏一門である、秩父党である。(p91)

・1338年の正月に行われた、青野ヶ原の戦いの歴史的意義は、南朝の軍勢が壊滅し、南北朝の戦いにけりがついたこと。つまり北朝が勝利して武士の世が到来した(p97)
・北畠親房が「神皇正統記」を書いたので、明治政府は南朝の正統性を主張しなければならなくなった。明治の元勲が尊皇攘夷を掲げて、江戸幕府を倒したから。尊皇攘夷のルーツは水戸学、それによれば南朝が正統である(p101)

・三種の神器は少なくとも三セットある、1)後醍醐天皇が常良親王に持たせたもの、2)後醍醐天皇が足利尊氏に降伏して自分が持っていたものを、北朝の光明天皇にわたしたもの、3)後醍醐天皇が隠し持っていたもの(p103)

・日本列島は、都と鄙(ひな)に分かれていた、都とは、基本的に京都を指すが、現在の中部・近畿・中国・四国地方が含まれる、鄙(ひな)は都から離れた田舎のこと、東北地方・関東・九州地方を指す、都は将軍が支配、鄙のうち関東地方(10か国)は、将軍から諸権限を移管された「鎌倉公方」が行っていた、東北地方は直轄地であったが、1392年からは鎌倉公方所管となった、鄙では、地域の有力武士が守護に任命された(p111)

・都にも守護が配置されたが、足利将軍家の一族(細川、斯波、畠山)であった。例外は、土岐や赤松氏、彼らは幕府の政治に参加していた。こうした都の守護大名が戦ったのが、応仁の乱であり、鄙の守護たちには関係がなかった(p112)

・立花宗茂と小早川秀包らの一万あまりの虎の子軍勢を、突然反旗を翻した大津城の京極高次に向けてしまった。このエース二人が加わっていたら、島津・小早川秀秋も西軍について、西軍が勝っていた可能性もある(p130)

・全国に守護を配置、荘園に地頭を置く権利を朝廷から認められた、1185年を鎌倉幕府の開府と考える(p150)

・江戸幕府は、関ケ原の戦いの後、関ヶ原ではなく、伊勢と彦根に防衛ラインを引き直して、東国と西国の新しい区分けをした。伊勢(津藩)には藤堂高虎、彦根には井伊家を置いた、これは敵は西からやってくるという想定で防衛ラインを固めた(p160、180)

・日本で起きた宗教戦争で何万という犠牲者が出たのは、キリスト教が伝来してきたときのみ、多神教の日本では、神様と仏様は仲良し(p185)

・白村江の戦いの敗戦が壬申の乱につながり、元寇がきっかけとなって鎌倉幕府崩壊に至る過程で吉野が原の戦いが起き、朝鮮出兵の大失敗により関ヶ原の戦いが起きた(p188)

・日本のポツダム宣言受諾が遅れていたら、アメリカ軍の九州上陸、ソ連軍の北からの上陸により、京都を中心とする象徴天皇制の日本国と、東京を首都とする大統領制の東日本社会資本主義国に分かれた可能性もある(p192)