・歴史とは「たくさんの史料の中から事実を拾い集め、わかりやすいよう筋道を並べたもの」である。「わかりやすい筋道がある」という意味では物語に似ているが、歴史と「文芸作家がつむぐ作品」とはまったくの別物である(p5)
・重要なのは、史料を「いつ、だれが、何のために書いたか」である。少なくとも本能寺の変から、数十年以上の後に書かれたものは、関係者以外の人が書いた「物語」である可能性が高い(p7)
・どこの国にも「国人」と呼ばれる有力武士がいて、それぞれが自分の領地の武力と経済を治める領主(国人領主)となっている、つまり彼らを家来に取り込めるかが国を平和に納めるためのキーとなる(p19)
・家を存続させるということは、家名を存続させること、よほどのことが無い限り、秀吉や道三のように簡単に改名しない(p23)
・光秀には妹(御ツマキ)がいて、信長がとても気に入っていたが、本能寺の変の10か月前に亡くなってしまった。彼女の死が信長と光秀の関係悪化を決定的にしたかもしれない(p41)
・細川藤孝は、古今和歌集の解釈を弟子から弟子へと相伝する「古今伝授」継承者であった、そのため関ヶ原の戦いの直線、舞鶴の田辺城が西軍に攻撃されたとき一番慌てたのは朝廷である。天皇から講和するように勅令がだされて、藤孝は他の城へ無事移送された(p68)
・琵琶湖の西の「坂本」というところが重要な物流拠点になっていた、日本海側から運ばれてくる商品は琵琶湖を渡って坂本に上陸した、また比叡山の東側の山麓にあるため、比叡山の僧侶たちが税金を集めたり金貸しをする拠点になっていた(p101)
・当時の日本の流通経路の中心は日本海であった、海産物や工芸品の多くが小浜あたりで陸揚げされる、それを京都まで運ぶには陸路より琵琶湖を渡って坂本に運ぶ方が良い(p104)
・丹波平定により光秀は29万石もらい、坂本とあわせて34万石となった。さらに与力分(丹後・細川藤孝、大和・筒井順慶)を加えると、240万石となった。近畿総司令官である「畿内管領」と呼んだ歴史学者もいる(p134)
・天正8年(1580)には、織田家の重臣・佐久間信盛が全ての領地を没収されたうえで、高野山に追放された(p171)
2020年3月29月日作成