・日本列島は、国土のほとんどが山と谷で、深い森に覆われ、しかも騎馬兵が隊列を組んで、疾走できるような大平原はない。平地があっても湿地帯が多い。森に誘い込み、隘路(狭い道)で襲えば大軍団でも撃退できる。だから強い王は現れなかったし、峠の向こうとこちらで異なる文化圏を形成し緩やかにつながり共存の道を選んだ。これが日本に独裁者が現れなかった理由である(p22)
・弥生時代到来後、東日本の縄文人たちの多くは稲作を拒み続けていた、理由の一つは、農耕をしなくても豊かだったから。縄文人は縄張りを守り、必要以上の殺生をしなかった。季節ごとに食べ物を変えて、飢餓とは無縁の生活を送っていた(p37)
・東西日本に文化と嗜好の温度差は確かにあるが交流がなかったわけではない、そして東西の海の交叉点が、三国と敦賀であった(p56)
・三関とは伊勢国鈴鹿関(三重県亀山市)、美濃国不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)、越前国愛発関(福井県敦賀市・滋賀県マキノ町との境)であるが、平安時代の大同5年(810)まで、合計11回の三関固守が行われた、謀叛人が東国に逃れ決起することを阻止するための措置、これは東にだけ取られ西側は無防備であった。(p64)
・物部氏も蘇我氏も東国と強く結ばれ、東国を手を組んでいた。彼らこそ古いヤマトを代表する二大豪族であり、彼らを潰して実権を握ったのが藤原氏であった。藤原氏にとって、東国は手強い政敵の亡霊でもあった(p67)西側からやってきた人達が「東を仮想敵」に見立てて都を置くのなら山城の平安京が最適である。近江方面から攻め寄せてきた敵を、狭隘な「逢坂=滋賀県大津市」で迎え撃つことができるから。平安時代になると「三関」と言えば、愛発関が外され、逢坂関を指すようになったほど重要な防衛上の拠点である(p86)
・北九州の日田に楔を打ち込むことで北部九州は身動きが取れなくなることは戦略家ならわかっていた。徳川幕府は日田を天領(幕府直轄領)にしている(p122)
・壇ノ浦の戦いは、関門海峡で最も幅の狭い場所で繰り広げられた。平家はここから九州に逃走すれば助かっただろうに滅亡の道を選んだのは、交易によって富を蓄えようとした政権ゆえに、関門海峡を失えば生きていけないことを知っていた。潮の流れに逆らって進むのはまず不可能で、船の行き来を監視、海峡の管理は楽だったろう(p125)幕末の下関戦争において、イギリスは関門海峡の首根っこの「彦島」の借款を要求したが、高杉晋作は断固拒否した。この時彦島を奪われていたら、日本の流通はイギリスに支配されていたかもしれない(p127)
・神話では「出雲vs天上界」と描かれているが、実際には、ヤマト建国後に勃発した主導権争いである「日本海vs瀬戸内海」であった可能性もある。日本海ルートは、出雲・タニハ・近江ルート、瀬戸内海ルートは、ヤマト・難波・瀬戸内海・関門海峡・北部九州・朝鮮半島である(p199)
・蘇我入鹿暗殺に成功したものの、政権転覆には至らなかった中大兄皇子らは、そののちもゲリラ戦を展開し、孝徳朝の末期にようやく主導権を把握できた(p248)
・646(大化2)に宇治川にかけられた宇治橋は、瀬戸の唐橋(大津市)、淀川の山崎橋(京都八幡市)と並ぶ、日本三古橋と言われる(p262)
・長い間日本の中心だった奈良盆地が捨てられ、山城(長岡、平安京)に都とが遷されたのは、淀川・巨椋池・琵琶湖の水運を利用するのん便利であったこと、そして東の脅威に対抗するためであった(p272)
・古代の関東地方で最も栄えていた地域は群馬県である、例えば埴輪は群馬県で独自の発展を遂げて、国宝に指定されるほどのレベルの高さを誇っている。朝鮮半島に多くの軍団を提供した、上毛野氏の地盤であり、関東地方全体の王だったかのような扱いを受けている(p295)群馬県は関東地方と西を結ぶ北側の玄関口となった(p301)
・関東は関西と異なって、広大な平野で遮蔽物ないこと、文化の著しい差が他地域に比べて少なく、また、利根川・荒川・鬼怒川・霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼の湿地帯を利用した地域間の交流が盛んだったことから均質な文化圏を産んだのだろう、文化の差があるとすれば、利根川を挟んだ彼方とこちらであるかもしれない。(p307
2021年5月5日作成)