・室町時代(足利義政)の幕府の財源は、守護出銭(守護が自らの地位を確保するため)と土倉の営業勢(土倉税)に大きく依存していたので、土倉の没落と幕府が発した徳政令が金融不安を起こして、公家や寺院の間では資金繰りに行き詰まって破産するものさえ出ていた(p13)
・戦国大名は、ある特定の地域を独占的に支配した武家勢力(軍事政権)であり、その支配地域は領国と呼ばれる。朝廷や幕府の権力が及ばない領国は、小規模ながら独立国家であったとみる研究者もいる(p16)当時の経済価値は、銭6−7文が、60−70円相当と考えられる(p20)8貫500文で50−60万円、1貫はおよそ60万円強(p29)
・銀一貫目は、1000匁にあたり、これは約37.5グラムに相当する、当時は銀1文目は、銭にすると約200文の価値となり、銀一貫目は銭200貫文(20万文)、現在の価値にすると、1200−1400万円程度となる。参考:銀1グラム=173円(p31)
・史料によると武田方は当時の男女を生け取りにして、甲斐国へ連行したという。親類によって見受け(身代金)の支払いがあれば解放して帰したようだが、それにはそれぞれ2−10貫(10−70万円)の金額が支払われた(p44)
・北条氏の税率は、現在の米の値段(1キロ=五百円)で考えると、10%程度強であり、それほど過酷な基準ではなかったと言える(p70)
・桶狭間の戦いで勝利した織田信長は小牧城へ本拠を移した永禄6(1563)年に「国中闕所(けっしょ)」を命じた・荘園など中世を通じて構築された様々な利権を全て白紙にして、信長のもとに権利を一元化し、直轄地としたり、新たに家臣に再配分するなどした、このような中世的な土地権利関係の否定は、中世の土地制度の根幹である荘園制の解体と言ってよい(p83)
・安土城普請において、瓦職人、設計建築の指揮を執る大工などの技術者は報酬が支払われていた。京都の大工に対して、一日金1両が支払われる例があった、当時の金1両=銭2貫=12-14万円、末端の労働者は無報酬だったが、食糧は支給されていた、1万人の場合、1日だけで60石=200万円かかる、年間で6−7億円である(p98)
・伊達政宗が上洛した際、京都へ持参した砂金380両について、当時の京都では、金1両=5匁(1匁=3.75グラム)なので、1両=18.5グラム(12−14万円)とすると、現代では5000魔万円程度となる(105)
・楽市楽座とは、荒廃した市場は新規に設置される市場に対して、その商売に関わる一切の特権を排除した、いわば自由市場とすることを権力が規定するもので、特権を持たない人々にも経済活動への参入を促すことになり、商取引の活性化を期する政策であった(p133)既存の市での特権剥奪を狙っていたとも言い難い(p134)近江での楽市楽座は、地域的な商人集団のナワバリ争いからの解放を念頭においての政策で、激化していたローカルな商売活動と権力が癒着することによって経済成長が鈍化しないように出されていたものであった(p144)
・度重なる対応を行なっていたが、1560年代ついに行き詰まりを見せて、永禄7(1564)年頃には、過度な悪い銭で百姓が迷惑を被っているので、コメでの代納を認めるように、品川の代官に通達している(p229)精銭の消滅と、ビタの登場によって銭相場が混乱していた1570年台は、銭立てで組み立てられていた税制は大混乱をきたした、その結果、品質に大きな差がなく、桝も統一されて量りやすくなった米が注目されるようになった、石高制の採用が促されることになり、豊臣秀吉はこの時流に上手く乗った(p262)
・金銀は庶民にはあまりにも価値が高すぎた、銀ですら、1両(約16グラム)で200文の価値があった。現在価値で1万円、これを小銭と呼ぶには現代人の感覚からしてもかけ離れれていいる。それに比べてコメは、1合=2文だったのでコメは銭の代わりを十分に果たせるようになっていた(p249)