・桶狭間の戦いは何のための戦いであったか、これは鳴海城というお城をめぐって織田と今川の間で行われた戦いであった。成海城はもともと織田の勢力下にあったのですが、それが今川に寝返ります。信長は鳴海状に対して、3つの砦を造って包囲する。それを救援するために今川義元が軍勢を率いて出撃した。今川から見れば、織田の包囲から鳴海城を救援するための戦いであった。この城は知多半島の付け根にあり、この城をもぎ取ることで知多半島を支配できる。三河湾の交易の権益、常滑焼などの焼き物もある(p22)
・知多半島は、尾張一部の知多郡と海東郡は一色氏(分郡守護)が持っていた、尾張の守護大名は斯波氏である、今川義元の目論見は、鳴海城を確保することでその知多半島を尾張国から切り離し、領有するために行われたのが桶狭間の戦いであった(p23)
・長篠の戦いにおいて、酒井忠次が、鳶ノ巣砦(武田の部隊の後方に布陣)を襲い、守備隊を全員戦死させて制圧したので、武田勢は退路を断たれる形となり、前進するしかなくなった(p53)
・三河全体を統一するには、まず東三河を支配する必要があった、これを束ねていたのが酒井忠次、西三河を束ねていたのが石川数正(秀吉に寝返り)であった(p59)
・戦争とは総合力なので、基本的には兵力が多い方が必ず勝つ、しかし補給が十分でないと勝つことは難しい、優秀な兵器を揃えた上で、しっかりとご飯を食べさせる(p65)
・家康は乗馬と水泳を死ぬまで鍛錬していた、両方とも逃げることを前提にして訓練している、信長(逃げるくらいなら腹を切る、是非もなし)や秀吉(前もって逃げることを考えるくらいなら勝つ方法を考える)とは異なる(p72)
・武田にとって対上杉の城は、信濃の海津城である、これは後に松代城と名前を変えて、江戸時代は真田10万石の城になって、その繁栄が長野市にまで受け継がれた(p76)
・家康の次女は最初は北条氏直と結婚したが、後に潰れてしまい、池田輝政のところに嫁いだ、家康が天下人になったときに池田家は一族でほぼ100万石の広大な領地をもらった。輝政は姫路城主となった、その後、岡山30万石、鳥取30万石となって残る(p89)
・城には、この町を守るための城がある、博多の町を守るための立花山城、奈良の町を守る松永久秀が造った、多聞山城、堺は街自体が城であった、秀吉の伏見城も京都を守る城である(p96)
・経験値を積んだ家康の采配が唯一、見事にはまって輝きを見せた戦いが「小牧・長久手の戦い」であった(p104)
・賤ヶ岳の戦いにおいて、よく前田利家が寝返ったというエピソードが言及されるが、それはあくまでもおまけ、この戦いの本質は、秀吉がわざと美濃に移動して見せて、それで柴田軍を誘き出したことにある。そうして柴田軍の中核である佐久間盛政の部隊を叩き、その勢いのまま柴田の本拠、福井の北ノ庄城まで攻め入った(p109)
・現存天守、昔のままの天守閣をもった城が現在、12個残っている、最後まで個人所有だったのが、犬山城であった。(p140)
・室町幕府の成立は、尊氏が将軍に任命された1338年ではなく、2年前倒しの1336年(建武式目:幕府の憲法の制定)、朝廷の価値がまだ高かった鎌倉・室町でさえ、征夷大将軍に任命された年が幕府創設だという考え方が退けられている。(p163)すると江戸時代の始まりは、関ヶ原の戦いのあと(1600)となる(p164)
・領地は大幅に減らすが家は残す、というやり方は足利義満も行っている、義満は美濃の土岐、山陰の山名、大内といった守護大名を討伐したが、当主は討ち取ったが家までは潰さなかった、これと同じように上杉も存続を許された(p165)
・家康は西から来る敵に対して、彦根に井伊、伊勢の津に藤堂、伊勢の桑名には本多、を配置した。東日本と西日本を二つに分けるとすると、彦根・桑名・伊勢の津のラインで分けるのがシンプルだが、家康はこのラインに信頼できる大名を置いた(p169)
2022年11月15日読了