suu3.jp 戻る

summary

なぜ、地形と地理がわかると江戸時代がこんなに面白くなるのか (歴史新書)

なぜ、地形と地理がわかると江戸時代がこんなに面白くなるのか (歴史新書)の写真

・蔵屋敷(大坂)には、蔵米以外にも、諸藩の国産の専売品として、織物・塩・砂糖・和紙・藍玉・蝋・鰹節などが集積された、これらを総称して蔵物(くらもの)と言った。この蔵物の出納・売却や売却代金の管理を行う蔵元・掛屋などの町人も出現した、国問屋(松前、土佐、薩摩など)や、米・綿・木綿・油・塩・木材などの専門問屋が軒を連ねるようになった(p22)

・奈良に幕領が多いのは、修験の霊地(金峯山寺、大峰山寺など)として信仰、峻険な吉野の地は、大海人皇子、源義経、後醍醐天皇などの隠棲・潜行の地として利用、丹生川上神社・店阿波弁天神社・吉野水分神社などの古代以来信仰を集めてきた祭司集団もいたので、山地の複雑な地勢と相まって、統一権力者以外の一円支配をなかなか容認しないような風土であった(p31)

・博多は古代には太宰府の外港として機能し、外交および外国人応接のために鴻臚館(こうろ)を設け、外敵からの警固のために警固所が設置された、黒田長政は、那珂川を境に、西側を主として武士の居住する福岡部、東側を町人の居住する博多郡と呼ぶようになった、17世紀半ばから博多は町人の街となった。明治22年の市制施行の際に福岡とするか博多とするか議論が沸騰したが、市名は福岡、駅名は博多と決まった(p41)

・江戸時代の一般庶民(町人、農民)は遠出の旅行はそれほど自由でなかったが、寺社参詣名目の通行手形は容易に発行された、特に伊勢参りはほとんどが認められていた(p48)

・日米修好通商条約が結ばれ、神奈川・長崎・新潟・兵庫の4港が新たに(下田、函館は和親条約で開港済)開港することになった、ただし幕府は神奈川の代わりに横浜を主張、交渉の過程では神奈川・横浜となったがl、条約では神奈川のみが記載された(p52)駐日大使のハリスが横浜開港を強く非難したので、幕府は妥協して神奈川に領事館を置くことを認めた(p53)

・御三家の地政学的役割、尾張は鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の外れ、幕府の拠点である東国に隣接する地域で、東海道・中山道など東国に向かう交通の要地であった、西区からの防壁の役目を担っていた、紀伊は京都の朝廷や朝廷と縁の深い伊勢神宮、高野山、熊野三山などの古代以来の権威を持った地域を確実に支配し、大坂から江戸への海上交通の南海路を確保するため、水戸は、東北の有力外様大名の、伊達氏・上杉氏への抑えという役割があった(p66)彦根は、近畿・東海・北陸の結節点であり、彦根城は西国の抑えと京・大阪への備えとなる城として意識された(p71)

・江戸幕府は、江戸のほかに、京都・大坂・駿府・奈良・堺・長崎・伏見・山田(三重県)・日光・下田・浦賀・新潟・佐渡・箱館・兵庫。神奈川などの重要都市を直轄地として、それぞれの都市に奉行を配置した、江戸・京都・大坂・駿府には街奉行所を置いた(p76)

・大航海時代のポルトガルとスペインの間で、1494年に結ばれたトルデシーリャス条約で、太平洋上の一線から東はポルトガル領、西はスペイン領と分割された。ポルトガルはアフリカ周りでインドのごあ、マレー半島のマラッカを経て中国を目指し、1516年にはマカオに進出、スペインは大西洋を横断してアメリカ大陸から太平洋を目指した、そしてフィリピン・マニラに1571年に到達した、従って、日本人が最初に接した欧州人はポルトガル人であった(p84)南蛮貿易の主体は、1639年にポルトガル船の来航禁止が命じられるまでは、明のマカオを拠点にしたポルトガルであった(p86)

・幕府は日本人の海外渡航を禁止する海禁政策をとった、長崎・対馬・薩摩・松前の4つの窓口を通して、異国・異民族との外交、貿易を管理・統制した。欧州に対しては、キリスト教厳禁の立場から、旧教諸国との外交・通称関係は結ばないという原則をとった(p91)

・ペリーは和親条約において、箱館と下田が開港となったが、当初、長崎に加えて、神奈川、浦賀、鹿児島、松前、那覇を要求してきた、神奈川は江戸に近く、那覇・松前は幕府の力が及びにくいので、長崎のみにとどめておきたかったが、交渉の末、下田と箱館を開港することになった(p100)

・江戸の支配系統も複雑で、町場は町奉行、寺社地は寺社奉行、武家地は大目付や目付と、それぞれ別の支配となっていた。町奉行が江戸の範囲を考えるとき、主に町場の外縁を繋いだ物であった、しかしその区域内には寺社や武家地も存在していて、そこへの町奉行不可入が原則であったので、町奉行の支配区域=江戸の範囲ではなかった。1818年に幕府は統一見解を出し、朱引で御府内の範囲を示した、その内側に墨引も引かれ、その範囲を町奉行所の支配地域とした(p117)

・江戸は低湿地の西側に武蔵野台地が広がっている、東から、上野・本郷・麹町・麻布・品川台地に区分される、その間には谷、沼、河川が流れ江戸湊へ注ぎ込んでいた。神田山を切り崩して、日比谷入江と江戸湾を埋め立てた(p120)この工事には日本全国から人夫が借り集められ、70もの大名が普請に参加した。出来上がった町には、それぞれの夫役人の国名がつけられ、尾張町、伊勢町などと称された。神田山の付近には駿府の家臣団が住み着いたので、駿河台と称するようになった(p121)

・江戸城36見附と呼ばれたが、とりわけ重要だったのは「江戸5口」呼ばれた五つの門、東海道の虎ノ門・甲州道中の四谷門・上州道の牛込門・中山道の筋違橋(すいかいばし)門・奥州道中の浅草橋門であった。このうち筋違橋門の内側には、神田見附と称された枡形が設けられた、加賀前田家の建造とされる(p123)会津藩60万石の蒲生忠郷は、将軍を迎えるための「御成門」と築いた(p139)

・江戸の鬼門である上野に寛永寺が作られ、鬼門と反対(=南西)の方角にも、裏鬼門と呼ばれて鬼門と同様に忌み嫌われていて、豊島にあった増上寺を芝に移して、その役を担わせることにした、京では石清水八幡宮がその役割(裏鬼門除け)をした(p143)

・江戸の刑場は、日光道中の近く、小塚原(現在の南千住)と、鈴ヶ森(現在の南大井)があり、庶民にとって二つの刑場は恐怖の場所になった(p162)流刑地は、当初は伊豆諸島の7島全てであったが、最終的には、八丈島・三宅島・新島と決定した。思想犯や重罪人は八丈島、軽い罪人は三宅島・新島に送られたとされるが、必ずしもそうとは言えない(p173)