・徳川家康は自分が獲得した財はあまり使わずに子々孫々のために残していた、その最たるものが「大法馬金」これは、金の大判2000枚で作られた分銅金(330kg)である、これが126個あった、純金にして30トン=1800億円程度。現在の日銀が保有している量(800トン)(p21)
・幕府は3大改革(享保・寛政・天保)における共通点は、武士の借財を帳消しや無利子にしたことである。それに対して商人の反発が大きいので、救済を行うたびに札差(金貸業者)に対して特別融資を行うなどして金融不安が起きない様にした(p26)
・1840−44の平均を100とした場合、開国(1858)時において、113−118、薩英戦争(1863)において、188−175、慶応元年(1865)には、308-257とインフレが進んだ(p31)
・参勤交代の頻度を減らしたり(3年に1度)諸藩に沿岸警備に力を入れさせたが、これが幕府にとって裏目に出た。当時の江戸は、諸藩の藩主の妻子と大勢の家臣たちが居住していたため、その消費によって経済が回っていた。彼らが帰国してしまえば、消費は冷え込んで江戸の景気は急激に悪化した(p39)
・島津藩では、500万両の借金を250年の無利子分割払いにした、その代わり薩摩藩が琉球などで行っていた密貿易に商人たちを関与させて説得させたと言われている(p47)砂糖の専売で、薩摩三島(奄美大島、徳之島、喜界島)や琉球への厳しい搾取によってもたらされた、三島の年貢は1745年、米から砂糖へ替えられた。島で生産された全ての砂糖をかい入れようとした。日用品と砂糖の交換比率は恐ろしく薩摩藩側に有利になっていた、薩摩藩は大坂の市場価格の5分の1の相場で砂糖を買い付けていた(p49)
・薩摩藩は余った砂糖と日用品の交換を徹底するため、三島において通貨の使用を禁じた。島民同士の商品の取引をさせず日用品は全て藩から買わせた。この通貨全廃の時、島民間の借金を全て帳消し(徳政令)にした、これにより島民の多くを占める貧困層の不満を一時的に吸収した。砂糖の増産のため、男子15−60歳以下、女子13−50歳以下に対して一人当たりの耕地を割り当てた、この専売制度は明治維新でも廃止されず、明治6年3月になってようやく大蔵省から勝手売買の許可が出された(p50)
・島津斉彬は、世間にも賢侯として名を知られ、松平春嶽(福井藩)伊達宗成(宇和島藩)山内容堂(土佐藩)とともに「四賢侯」と呼ばれた(p57)
・長州藩では検地を厳しく行い藩の石高に繰り入れていた、1625年において65万石、1652年までに2万石、1681年までに4.3万石増加している、明治2年に新政府に提出した財政報告では、本領71、支領27万石の合計98万石となっており関ヶ原直後から3倍に増加している(p59)
・長州藩を立て直したのは家老の村田清風で、藩士たちの借金を肩代わりして37年3%払い続ければ完済するという返済方法をとった、1年間にすれば0.3%程度の利子。その代わり藩士たちの俸禄を下げた。そして下関に「越荷方」という役所を作った、九州および北前船の中継地点であった。これにより財政改善がなされた(p61)撫育局という機関を作り防長三白(塩、紙、米)と呼ばれる特産品の発展に務め、藩会計とは別会計とした、藩の赤字に拘らず産業発展に予算としてプールされて産業振興ができた(p62)
・イギリスをはじめとする西洋諸国の貿易商人たちは、アジア諸国で行っていた方法で日本でも暴利を貪ろうとした、日本を植民地にせずとも経済的に植民地同様にしてしまおうとした。初に生糸を非常に高い値段で引き取り、各地で買い集めて横浜に大量に集まったところで、急に買い控えをして価格を暴落させて買い叩いた。そのために商人は断ちいかなくなり、外国商人から借金をする羽目になり言いなりになってしまった。当時、横浜・長崎に続いて兵庫も開港されそうになっていた。同じ失敗を繰り返さないようにして作られたのが兵庫商社である、生糸の利益を幕府が独占する計画も持っていた、日本とフランスの合弁会社の様なものを作り生糸の輸出は全てフランスに限定しようとした(p108)これに対して、薩長や尊皇派は警戒し、坂本龍馬などは対抗して「海援隊」を作ったり、薩長や徴収に働きかけて「下関商社」を作ろうとした(p110)
・横須賀造船所の建設費の倍以上の600万ドルをフランスから借り入れる予定であったが、幕府の崩壊によって流れたので具体的な担保設定は行われていないが、担保は北海道(鉱山の採掘権)であったと思われる(p113)
・第二次長州征伐は長州藩の圧勝に終わった、兵数や海軍力では幕府側が圧倒的に勝っていたが、長州藩は少数ながら最新の武器を入手し、士気も旺盛だった。(p129)
・明治維新後は、下関商社に反対した瀬戸内海の既存の廻船業者たちはほとんど姿を消した、蒸気船が海運の中心になったので、これまでの和船の業者では太刀打ちできなくなったから(p139)
・大政奉還に驚いたのは実は「朝廷」であった、一番大きな問題は金だった。そのため朝廷は大政奉還直後に密かに幕府に献金を要請したりもしていた。結果として、徳川慶喜は勘定奉行に命じて1000両の献金、京都の代官に命じて天領の貢納金から5万両を献金させた、当時はこの件は公表されなかった(p148)
・1867年の11月中に上洛したのは、薩摩藩・安芸班・尾張藩・越前藩のみ、12月になって土佐藩が上洛した、この5藩によって新政府の原型が作られた。そして12月に王政復古の大東令を発した、それと同時に上記5藩の藩兵が京都御所の警備についた(p149)
・薩摩藩は天保通宝を約3年間に290万両鋳造し、約200万両の利益を上げていたl、主要財源の砂糖収益が40万両だったので、偽金作りでその5倍の収益を上げていた(p184)
・偽二分金を製造した藩は、現在判明しているだけでも、会津・秋田(久保田)・仙台・二本松・加賀・郡山・佐土原・高知(土佐)・広島(安芸)・宇和島・薩摩・筑前・久留米がある。幕末の政局に影響を与えた藩は、たいがい偽金を作っている(p206)
・明治6年に、新旧公債証書発行条例という法律が公布された、これは旧藩が抱えていた藩札、藩債の処分方法を取り決めた、1)幕府が棄捐令を出した天保14(1843)以前のものは破棄、2)旧幕府や個人に属する夫妻は償還の対象外、3)藩債は、慶応3(1867)以前と以降を区分して政府が召喚する、これは事実上の徳政令であった。維新以後の新債も、4%利息つき3年据え置き25年償還で政府に有利な取り決めであった(p219)そのため、江戸時代の大商人の多くは没落することになる、江戸時代の大阪の豪商34家のうち、23家が破産・絶家、保持できたのは9家に過ぎなかった(p220)
・士族の多くは新しい政府での官職を求めようとしたが、能力のない人は雇われず、旧武士で官職にありつけた者は、全体の16%であった(p224)
・アメリカの南北戦争、アメリカ南部地域(サウスカロナイナ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ミシシッピ、ルイジアナ)は、敗戦国同様の扱いを受けた。北軍によって10年間、占領統治された。南部インフラが完全に回復したのは、第二次世界大戦期だと言われる。純然たる南部出身者が大統領になるのは、1977年のジミーカーターまで待つことになる(p229)
・明治維新で一番得をしたのは、農民である。国家は、版籍奉還、廃藩置県により返還された土地を無償で農民に与えた(所有権を与えている)。農業生産の拡大は、農業技術の向上もあるが、最大の要因は、地租改正が農民のやる気を引き出したから。物納の年貢をやめて、金銭による納税に変更した、土地代の3%であった、これは収穫米の平均代価の34%程度に設定されていた、これは江戸時代の年貢と同等か若干低い程度。さらに収穫高に応じて税額が決められるのではく、あらかじめ決まった額の税金を納めるだけで済んだので、農民として頑張る価値があった(p233)
・戦後の農地開放は、実は大規模なものではない、当時の小作地は全農地の46%、小作農も農民の半分以下、日本の全農地を与えた明治維新時と比べるとはるかに規模が小さい(p234)
2022年10月31日読了