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summary

気候で読む日本史 (日経ビジネス人文庫 G た-11-1)

気候で読む日本史 (日経ビジネス人文庫 G た-11-1)の写真

・古代から近世にかけての気候変動をもたらせた大きな要因として、太陽活動の変化と火山噴火の2つが考えられる(p21)

・日本の総人口は、950年にかけて440万人-560万人に減少、平均寿命は20歳を切った、平安時代末期の1150年までに530-630万人となった(p37)

・干ばつ時には雑穀栽培の奨励がある、雑穀とは、小麦・大麦・粟(あわ)の他に、キビ・大豆・ソバを指す(p51)

・平城京時代の大陸との窓口は、大宰府であった、8世紀前半の遣唐使は、瀬戸内海を西に向かい大宰府から五島列島を経て、東シナ海を横断するルートが取られていた(p59)

・天智天皇が大津に都を移したのは、大陸からの武力侵入に備えるためだけでなく、背後に豊かな森林資源があるのも理由である(p73)

・檜皮葦、漆喰、畳、という日本の伝統的な住居は、古代の森林伐採による資源枯渇の産物である(p79)

・アカマツは他の樹種が生長できないやせた土地で勢力を伸ばすことから、アカマツ林とは荒廃傾向の林地の象徴といえる、京都東山一帯には、平安時代以降に形成される。マツタケは古代の森林伐採により京都盆地をめぐる丘陵が荒れ果て、アカマツ林が広がったことによる(p83、84)

・雨乞いを行うときの神社として、丹生川上神社(奈良県吉野郡)以外には、伊勢神宮、京都左京区にある水神をまつる、貴船神社、海の神をまつる、大阪府の住吉神社、滝をご神体とする、大阪府吹田の垂水神社があげられる。鎌倉幕府になっても祈祷が中心(p93,133)

・律令制の根幹のひとつである公地公民のもとでの班田収授法の実施は、干ばつが続く時代背景の中で、9世紀にかけてゆっくりと崩壊していった(p98)

・1231年について、夏の全国的飢饉で人々は馬、牛を食べるほどの惨状であり、諸国でネズミが大量発生し五穀の実を食べつくしてしまい、全国でおよそ3分の1が死んだと記されている(p116)

・ナイル川の水源は3つ、スーダンを経てビクトリア湖を源流とする白ナイル川の長さが最大だが水量は30%程度、エチオピア高原の青ナイル川が60%、その北を流れるアタバラ川が10%と大きい(p120)

・北条泰時は、承久の乱の後、3人の上皇を配流し、朝廷軍の首謀者を処刑、3年間京都に留まった。京都守護を改組して、六波羅探題とした。ここは、執権・連署につぐナンバー3の要職となっていく(p123)

  ・平安時代初期になると、奴隷制は公的には禁止になっていた可能性がある、しかし奴隷身分の規定が延喜格にあることから、一般的な廃止というのは無理がある(p130)  

・1258年に、おそらく赤道付近のどこか(インドネシアのロンボク島・サマラス火山?)で、巨大な火山噴火があったと考えられる、その規模は、欧州の古代史を終わらせた546年頃の謎の火山噴火、天明飢饉と関係する、1783年のアイスランド・ラキ火山、そして「夏がなかった年」を与えた、1815年のタンボラ火山に匹敵する(p140,143)

・1260年頃の東北地方では、寒冷湿潤な気候で耕作困難となり、農業を営む暮らしから、狩猟採集生活に戻る事態が生じていた、この頃、クビライは活躍していた(p148,151)

・平安時代末期から鎌倉時代を経て室町時代に至る間の農業技術の発展とは、鉄製農具の普及、農耕家畜の利用、肥料の多様化、灌漑施設・水利管理の向上、新しい稲の品種改良、そして、水田二毛作の導入(肥料の改良により可能)であった(p165)

・戦国大名が他国を侵略する場合、領地の拡大が主たる目的であるが、足軽や雑兵にとっては、勝手な略奪こそが軍隊に参加した目的である(p210)

・後北条氏は、室町幕府の政所執事であった、伊勢一門の伊勢盛時が、1493年に伊豆に討ち入り小田原城を奪取したことに始まる、その子の氏綱は1523年に「北条」へ改姓、北条早雲と称されることとなる(p211)

・1588年のイングランドとスペインで行われた、アルマダの海戦後、スペインの無敵艦隊は帰国の航路で、暴風雨に遭遇、イングランド艦隊からの敗北以上の大損害を受けた(p218)

・薩摩軍も、上杉・武田配下の足軽、雑兵と同様に、戦利品として人々を生け捕り家畜を奪った、九州の場合の戦争奴隷の売り先は海外であった。島原半島に連れて行って売り渡されている。(p220)

・シュペーラー極小期(小氷期で最初の寒冷期)に1420年から突入した地球では、凶作によって飢えた農民は武装化して、土一揆をおこし、食料や財貨を強奪することに活路を見出した、この流れが戦国時代の足軽や雑兵へと受け継がれた(p222)

・豊臣秀吉は、1588年の刀狩令により農民に対して武力の象徴である刀の保有を禁じた、同年には、海賊船禁止令ならびに壬申売買禁止令、1590年には村落から傭兵を追放する浪人停止令を発している、朝鮮出兵が終わると、彼らは東南アジアへ向かった(p222)

・家光の頃になると、人々はようやく武力ではなく、直訴を得策と考えるようになる、小氷期の厳しい気候が緩和された時代でもあった(p223)

・縄文時代から江戸時代に至る日本の総人口は、3回の大きな上昇傾向があった、1)紀元前5000年~2000年の縄文前期から中期、11→26万人、2)紀元前3世紀の弥生時代から8世紀の奈良時代、縄文後期の8万人から1000年間で、600万人程度、3)室町後期から江戸前期にかけて、3000万人まで(p230)

・島原の乱(1637)までが江戸幕府は戦国時代からの軍事態勢であった、これ以降は民政へ移行したきっかけが「寛永の飢饉」であった(p244)

・本州の農民一揆において鉄砲の不使用は武士と農民双方の暗黙の了解であったが、アイヌに対してはそうした遠慮はなかった(p251)

・1872年に元禄の飢饉を契機に制定された、田畑永代売買禁止令が禁止され、田畑の売買が可能となった。江戸時代から維持されてきた主規模自作農は、明治凶作時に没落して、小作農が大量に増加した(p304)