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経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書

経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書の写真

・当時の貿易のリスクはすべて宋商人が負っているので、そこから莫大な利益を得るのは日本人ではなく、宋商人であった(p19)

・日本人が貿易に参加できなかった理由は、894年の遣唐使廃止以降、造船術や航海術が発達しなかったから(p20)

・平家は独占貿易体制をとることで巨万の富を得た、他の例として、足利義満・薩摩藩・ポルトガルやオランダがある(p23)

・宋商人は、朝廷に隠れて(支払が遅く安く買いたたかれる)民間(寺社、貴族)と取引するようになり、これが密貿易(私貿易)となった(p27)

・貿易で巨万の富を稼ぐ条件として、1)販売単価高い、2)形状小さい、3)量が多い、である(p30)

・平清盛が私費で瀬戸内航路開発(大輪田泊)をしたのは、和船よりも格段に船底が深い宋船が機内(山城・大和・河内・和泉・摂津)に安全に入れるようにするため(p41)

・貿易の中心地を博多から神戸に移すことで、貿易実務を宋から日本へ移す一大革命をしようとした(p46)

・足利義満は1392年に南北朝合一を行うまで、九州を本拠地とする南朝方の懐良親王が日本国王として明と貿易を行っていたので苦労した、金閣寺を建てて明の勅使を招いたりした(p54)

・関ヶ原の戦いは、東軍がオランダの大砲、西軍がポルトガルの大砲を使った、アジア貿易の代理戦争で、プロテスタント新教国とカトリック旧教国との戦いであった(p56)

・日本経済史上のミステリーとして、絹・米を交換手段とする物々交換経済が、10年程度(1160~70年)で貨幣経済へ変わったこと(p58)

・平清盛は宋銭を買い続けていたが、朝廷は使用禁止令(1187,89,92,93年)を出しているが、効果はなく戦国時代まで宋銭が使用されることになった(p60)

・デノミを行った北朝鮮では、お金を信用しなくなり(交換上限があった)商品の確保へとシフト、そのため物価があがりハイパーインフレ状態となった(p86)

・古代日本がデノミに失敗したのは、新貨幣が質の悪いものであり信用されなかったから(p87)

・奈良の大仏が鉛を1%しか含んでいないのに対して、鎌倉大仏は10%含んでいて、宋銭に近い値である、材料として使われた(p104)

・清盛が狙っていたのは、実質上の通貨発行権、宋銭が普及してその輸入を平家が独占できれば、通貨発行権と同等の権限を朝廷から奪うこと(p112)

・10年程度で貨幣経済へ変わった理由は、宋銭が仏具をつくるための銅材として国内に広まっていて、銅自体の価値が高かったので宋銭がスムースに貨幣として信任された(p121)

・内乱が起きるほど不平不満がたまっていた理由として、1)全世界的な寒冷期の到来、2)宋銭の普及による貴族・武士の困窮(p135)

・宋銭が招いた格差社会とは、現代の円高に状況がにている、通貨の価値が高くなるとモノの価値が低くなり、デフレとなる、宋銭を持っている平家が有利になる(p139)

・飢饉が起きるとコメの価値が上昇するので、宋銭の価値が相対的に下がる、飢饉をきっかけとして、一気にハイパーインフレが発生した(p169)

・ハイパーインフレで資産をもっとも失ったのは、平家一門、労働者を雇っていた大規模事業もできなくなった(p170)

・平家が得意としてきた人集めができず、常備兵がいない平家は銭の価値暴落により、軍事力の低下に直結した、富士川の戦いは源氏:4万に対して、平氏:2千であった(p173)

・古代からの幹線道路である東海道は、関ヶ原、米原ではなく、伊勢の桑名、四日市、亀山を通っていて重要なポイントであった、安濃津は室町時代には「三津七湊」の一つとして有名であった(p184)

・清盛の死後1181年3月に起きた墨俣川の戦いでは平家が源氏を破っている(p206)

・1183年にも、平家軍は水軍を使って木曽義仲を破り、瀬戸内海では連戦連勝(p206)

・壇ノ浦の戦いで平家が敗れたのは、潮流の変化ではなく、田口成良の寝返りであった(p207)

・土地を中心とした国造りは江戸幕府、明治政府へと引き継がれた、国税収入で地租(土地課税)が酒税に抜かれるのは1899年、700年間、土地中心の社会が続いた(p209)