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日本人が知らない!「文明の衝突」が生み出す世界史 人類5000年の歴史から国際情勢の深層を読み解く

日本人が知らない!「文明の衝突」が生み出す世界史 人類5000年の歴史から国際情勢の深層を読み解くの写真

・フクヤマ理論では(自由主義と社会主義というイデオロギー対立の時代が終わった世界は決して統一されなく新たに文明衝突が始まる)日本は西側自由主義国として日米同盟を死守し、中国・ロシアに対峙すべきだが、ハンチントン理論によれば、日本は世界9大文明の一つであり、中華文明とも西欧文明とも違う独自の価値観を持っていることになる(p6)

・神道は宗教ではない、教義や経典ができたいなか、さらには教会や集団組織がでけたか否かが、信仰から制度化された宗教に移行する大きな分かれ目である(p22)宗教と言語に続く、第二の文明化をもたらす要素は、技術・制度である(p23)

・中国の歴史を見ると、異民族(北狄;モンゴル、南蛮;長江、東夷;日本、・朝鮮・山東省、西戎;シルクロード)が中華に攻め入っているが、攻め入った彼らも中華文明と呼ぶ(p28)黄河文明の影響力は長江下流に及んだが、上流域の四川省方面には及ばず、この地域には長江文明が維持された(p32)

・日本の天皇は中華皇帝と対等なので「天皇陛下」と呼ぶことができる、朝鮮王は「殿下」という一段格下の尊称で呼ばれた、お世継ぎは「太子」でなく「世子」「万歳」は皇帝に対する賛辞で、朝鮮王には「千歳」である(p41)

・ベトナム戦争でアメリカがベトナムで投下した爆弾量は、第二次世界大戦でアメリカが、日本とドイツに投下した爆弾量の2.8倍に相当、それでもベトナムは屈せず、ゲリラ戦を続けて最後は勝利した、ベトナムにはフランスにもアメリカにも負けない気概があった(p50)

・もともと中国には書き言葉として漢字はあっても、話し言葉としての漢語がなく、方言の差が激しすぎて意思疎通は難しかった、日本の近代化の影響を受け、近代日本語のような共通な話し言葉として、今の中国語を成立させた(p60)

・日本人は台湾の先住民の首狩りの文化をやめさせた、その風習が長く続いたのは、異なる部族同士で言葉が通じなかったから、そこで日本人は彼らの共通語として日本語を教えようとした(p66)

・中華文明とインド文明の境目は、まずはチベット高原から雲南省のラインとなる、中国の雲南省から南へ向かい、ベトナムとラオスの境にあるチュアンノン山脈、アンナン山脈が境目となる、この2つの山脈の東に位置するベトナムは、基本的には中華文明圏となり、西に位置するラオスはインド文明圏となる(p78)ベトナムは全ての侵攻を撃退したので、ベトナム北部は中華文明、南部はインドの影響が強い東南アジア圏となった(p86)

・シンガポールとマレーシアは、マレーシア連邦を構成していたが、シンガポールの人口のうち8−9割を華僑が占めていた、マレーシアは華僑を分離するために、1965年にシンガポールを独立させた、「橋」とは「仮住まい」という意味(p102)

・ヒンドゥー復古主義を掲げるインド人民党のモディ首相は、対外向けの国号も「Indo」から」「Bharat(=バーラト)」に変更した(p112)元々インドにいた人たちはカーストの下位、紀元前1500年にインドに侵入してきたアーリア人は自らを、神に選ばれた民族として、カースト制度を作り出した、彼らが生み出した宗教がバラモン教、これから派生したのが仏教、バラモン教が大衆化したのがヒンドゥー教である(p116)

・歴代の清皇帝はチベットのリーダーである、ダライ・ラマをとても大事にしている、軍事的にはチベットを占領したが、清の皇帝がダライ・ラマと会う時には両者は対等の立場で向き合っていた、中国がチベットを占領したのは毛沢東が初めて(p134)

・欧州からエジプトを見た時、インド貿易の最短距離を考えた時、エジプトを押さえれば良い、そのためエジプトはローマ帝国の一部となり、そのままキリスト教を受け入れた、五大教会(五本山)の1つ、アレキサンドリア教会も抱えていた(p148)そしてキリスト教を捨ててイスラム教に改宗した、欧州商人よりもイスラム商人との結びつきを強めたいと思ったので(p149)

・ノアの方舟の流れ着いたコーカサス(ウクライナから南ロシア)から白人の分布が始まったので、白人系をコーカサイドという、ノアの方舟はアララト山に着いた、ノアの息子には、「セム・ハム・ヤベテ」の三人がいた、セムとハムは南に向かい、セムは中東アラブ、ユダヤ人の祖、ハムは北アフリカのエジプト人、ベルベル人の祖となる、ヤベテは北西に動き、ヨーロッパ人になったという伝承である(p153)

・アラブ人の作ったイスラム帝国にペルシア帝国は飲み込まれてしまった、イラン人にはプライドを傷つけられた思いがあり、アラブ人と同じイスラム教国であることに内心では居心地の悪さを感じている、そこでイラン人はイスラム教の中でも少数派のシーア派を選んだ、アラブに滅ぼされたササン朝ペルシアの栄光を、今も忘れないという意思表現でもある(p161)

・ロシアにおいて、キリスト教では妻は一人、しかし飲酒は許されて、教会でも儀式でもワインを飲んでいる、ということで、ウラジミル1世はキリスト教を選び、キエフ・ルーシの国境をギリシア正教と定めた、またビザンツ皇帝の娘と結婚し、ロシアはヨーロッパの一員となった(p176)

・西欧文明は2つに分けることができる、1)ラテン文明圏、2)ゲルマン文明圏、東欧文明(=スラブ文明)の3つの文明圏は、民族・宗教・言語もきれいに分かれる、宗教では、ラテン文明はカトリック、ゲルマン文明圏はプロテスタント、スラブ文明は、概して正教になる、一部カトリックが入っている(p188)

・東側の正教は、非常に国家単位な存在である、東ローマ皇帝が教皇的な権威を兼ねていても、東側の正教全体を束ねているわけではない、東方正教を束ねる組織が存在しない、ロシア・ギリシア・ブルガリア・ウクライナ正教会等である(p213)カトリックでは、父なる神・子なるイエス・精霊が一体である、正教は、一体だけれども、それぞれに役割があると考える(p215)

・モスクワ大公国のイヴァン4世は、チンギス・ハン直系の名門出身、サイン・ブラトをモスクワに丁重に迎え入れ、彼を全ルーシ(ロシア)の大公の座につけ、自らは臣下のように振舞った、1年後にサインから大公の地位を譲り受けて、モスクワ大公はロシア人の王であり、同時にチンギス・ハンの後継者であることを世界に示した、一方でビザンツ(東ローマ)帝国も受けつごうとした、15世紀にビザンツ帝国の皇女を妃に迎えて、ビザンツ帝国の後継者として皇帝(=ツァーリ)の称号を継承している(p219)ピュートル1世が1721年に教会改革を断行し、モスクワ総主教座を廃して、ロシア皇帝がロシア正教のい最高祭祀者(宗教君主)となった(p221)

・中世のウクライナでは、3つの勢力がぶつかり合った、1)東欧文明圏であるモスクワ大公国、2)西洋文明圏であるヤケヴォ朝(ポーランドがリトアニア大広告と合併、p253)、3)アジア人であるコサック集団の衝突があった、ロシアは同じ民族だから同じ国家になるべき、ウクライナは、言語も異なり全く違う歴史を歩んできた、となる(p238)

・ロシア革命後に生まれたソヴィエト連邦は、ロシア・ウクライナ・ベルラーシなど4つの共和国が対等に合併した連邦国家という建前だったが、実際はモスクワのソ連共産党の命令が絶対になり、抵抗するウクライナ人はスターリンによって虐殺された(p247)

・北欧4カ国(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク=ノルマン人、フィンランド=モンゴロイド)のうち、フィンランド人はシベリアの先住民であったが、移動してフィンランドにたどり着いた、エストニア人の祖先もシベリアにいたアジア系民族、遅れてきたのがハンガリーを形作ったマジャール人である(p258)

・1996年、中国・ロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタンの5カ国による上海協力機構を結成、中国からの経済支援と引き換えに、ウイグル人分離独立運動に介入しないことを約束している(p277)

・16世紀初頭のアステカ王国、インカ英国は、それぞれ1000万人の人口を抱えていた、その合計200万人の人口が急激に減り、半分になった。大量のスペイン人(50万人ずつ)が渡って行った、アステカでもインカでも現地民はスペイン人の20倍もいた、一人のスペイン人の男が最低20人のインディオの女性を妾にした、こうして混血が生まれて行った、モンゴル高原の北方民族が中国を占領した時と同じ割合である(p287)激減した先住民族の代わりに、アフリカから多くの黒人奴隷が西インド諸島に連れてこられた、バハマ・ハイチ・ドミニカ・ジャマイカの9割前後が黒人か黒人混血になっている(p291)

・スペインは労働力が不足するのでアフリカの黒人を使用することになる、アフリカに植民地を持っていたポルトガルがスペイン領新大陸に黒人奴隷を供給した(p293)

・2024年10月、サモアで開かれたイギリス連邦の首脳会議では、過去の奴隷貿易に関するイギリスの責任を追求し、賠償を求める声が上がったが、イギリスは過去に一度も植民地制度や奴隷貿易を謝罪も賠償もしたことがない(p294)

・イギリスの上層階級はイギリス国教会を奉じていたため、平等主義を掲げるピューリタンを弾圧した、経済的な理由に加えて、新大陸への移住はこうした宗教弾圧を逃れて、ピューリタン信仰の自由を確保するための政治難民であった(p316)

・スペインを追われた大量のユダヤ人はオランダで保護され、その経済発展を支える、17世紀のアムステルダムが世界貿易と金融の中心となったのは、ユダヤ・マネーのおかげ、オランダの航海の支援した(p319)

・英蘭戦争でオランダは北米植民地を失ったが、交換条件としてイギリスのニューネーデルランド併合を認める代わりに、南米大陸のイギリス領スリナムを得た、寒冷地の北米よりも、砂糖プランテーションで確実な利益を出せる熱帯のスリナムを重要視した(p320)

・日本では江戸時代までは、神仏習合で、神道は仏教とも融合する寛容さであったが、明治になると国家神道を国教化し、仏教を排斥した(=廃仏毀釈=神仏分離令)(p341)