・1599年正月 10日、 豊臣秀頼は 病身の前田利家とともに大阪城へ移り、 伏見城には徳川家康が残って 政務を執り行った。政権が大阪と 伏見 に分立した状況であった。 そんな中 徳川家康は 諸将と誼を通じ、 伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政 らと姻戚関係を結ぼうとした。これに対し、前田利家 4大老と5奉行は許可を得ない 婚姻を禁じた 豊臣秀吉の遺命に 背くのなら、 大老から外れるよう 徳川家康に迫ったが、家康は逆に自らを退路から外そうとすることこそ 秀吉の遺命にして反発した(p12)
・1599年閏3月3日、 豊臣秀頼の貢献であり また豊臣家中の武断 派と分治派の対立を抑えていた 前田利家が病死した。 その翌日、 武断派の加藤清正・浅野幸長・福島正則・黒田長政・細川忠興ら7武将が、石田三成を襲撃する事件が起きた。 石田三成は 佐竹義宣に護られて伏見に逃れた。徳川家康は両者を仲裁し 7武将に兵を引かせる代わりに、石田三成の奉行職を解き、領国の佐和山に蟄居させることにした(p13)
・1599年9月7日 徳川家康は9日に行われる 重陽の祝儀のために大阪に向かった、 家康は 前田年長を首謀者とした家康 暗殺計画があると告げた。 家康は これを名目に重用の祝儀が終わった後も大阪にとどまった、 そして 27日 伏見で 政務を代行せよとの秀吉の定めに背き、大阪城 丸に入った(p13)
・ 1600年7月17日、増田 長盛・前田玄以・長塚 正家の3奉行連署により、 徳川家康が豊臣秀吉の遺命に 背いていることを13 箇条 に渡って記した「内府ちかひの条々」が諸大名に だされた。これを受け、宇喜多秀家・島津義弘、豊久・ 小早川秀秋・長宗我部盛親・小西行長・脇坂安治らが 大阪に集まった、 兵力は約9万と言われているが、大阪城に集結した諸将の思惑は、一様ではなかった(p16)
・島津義弘 はかねてより 徳川家康 から 有事の際に 伏見 城を守備するよう依頼されていたため 伏見 城に入場しようとしたが、鳥居元忠 から 拒否されやむを得ず 西軍に合流したと言われている(p17)
・徳川家康は9月1日までの間 江戸城 にとどまっている。 これは 小山 評定の時点では、上方での挙兵は、 石田三成と大谷吉継の2人によるものと考えられていたが、その後、豊臣政権の奉行の連署による「内府ちかひの条々」を知るに至り、豊臣恩顧の大名が西軍につくことを懸念し、動けなくなったためである(p19)