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summary

シン・関ヶ原 (講談社現代新書)

シン・関ヶ原 (講談社現代新書)の写真

・ 文禄4年 7月 秀吉はそれまで 後継者としていた 関白 豊臣秀次 を自害させ、武家関白制度の設立に尽力した右大臣の菊亭晴季も追放してしまった、 そして義弟(妹婿)である 家康を大臣に取り立てて、太政大臣である自身とともに政権運営を担わせた。 つまり、秀吉が没する前の慶長3年7月の時点で、家康は唯一の「公儀=大臣以上」と呼ばれる立場にあり、 中央政権の運営に3年 携わった実績を持つものであった(p23)

・家康は 慶弔 4年の時点ですでに 豊臣政権における軍事を掌握していた、 庄内攻め・海賊の取締りは、いずれも明確な 軍令であり、 これらは「五大老五奉行の合議」によって決定されたものではない(p27)

・ 家康に対して意見を言う資格を有しているのが、大納言 以下の者で、豊臣政権内では、 小早川秀秋・ 徳川秀忠 ・宇喜多秀家・ 上杉景勝・毛利輝元・前田利長の6人の中納言である(p42)

・ 家康に背き上方で反乱を起こしたのは 石田三成 ではなく、 増田長盛・長束正家・ 前田玄以の三奉行であった、(p82)

・内府ちがいの条々は、全国の諸大名に発布されたように言われているが実は そうではない、 弾劾されている 家康 本人はもちろんのこと 会津 攻めに従って 東国に 向かっていた 諸大名は受け取っていない。 弾劾状は、 上方の状況に詳しくない九州の諸領主に当てて、 家康を 政権から排除するといった経緯を説明する目的で書かれたものである(p100)

・ 西軍の中心人物は奉行衆以外では、毛利輝元・宇喜多秀家・島津維新の3人である、輝元・秀家と同じ中納言である小早川秀秋・織田秀信は、 合議には参加しておらず 奉行衆の指揮下にあった(p115)

・従来 西軍の首謀者は石田三成 であり 毛利輝元は 名目上の総大将 にすぎないと考えられてきた、 しかし 同時代の 史料によると、安国寺恵瓊が「毛利輝元の命令で 石田三成と大谷吉継は大阪へ 呼び戻された」と触れ回っている。 毛利輝元は、 三奉行と結んで天下人 家康 を弾劾し、 諸大名を 大阪へ呼び寄せたと考えられる(p116)

・7月29日に行われた 軍議が世に言う「 小山評定」であるとすれば、 その参加者は、 池田照政・ 藤堂高虎・井伊直政・ 浅野幸長らと言うことになる、 家康はこの評定の後に彼らに上方へ 先発している少々の後を追わせている、 その諸将とは、福島正則・ 黒田長政・ 田中芳正・ 京極高知・徳永寿昌 である、彼らは 親までの評定には参加していない(p130)

・ 通説が言うように 小早川勢が戦闘中に突然、 西軍を裏切って 大谷 人に攻め込む などということは不可能であったと筆者は考えている。 秀秋は合戦の途中 もしくは 開戦と同時に 寝返ったわけではなく、 9月14日に松尾山を占拠した時点で 東軍であった(p252)

・ 西軍に属しているどこかの舞台の指揮官であったとする、 戦場の南端で小早川勢が突然、大谷勢と交戦を開始した とて、 危機感はどの時点でどのようにすることができるだろうか。 果たして 敵はどちらで味方はどちらかを正しく判断する ことができるだろうか、 あるいは当分に属するどこかの部隊の指揮官であったとする、 それまで敵であった人数のうち 一部のみが突然 味方になって 西軍の陣地へ 攻撃を開始したことは 東軍の指揮官がいる位置からは見えない、従って 家康の事前工作が功を奏し 小早川英明は最初から東軍であったという結論になる(p253)

・ 通説では両軍 合わせて15万人が天下分け目の戦いを戦ったと言われるが実際に戦ったのは何人ぐらいであろうか、 西軍は、 宇喜多・島津・小西・石田の諸隊であり、 東軍は、 小早川のほか、 福島・黒田・藤堂の諸隊である、 概算では両軍 合わせて3万ほどの人数が戦ったと考えられる(p265)

・後世に伝わってる布陣図はフィクションである、 西軍が鶴翼の陣を敷いて 東軍を待ち受けたというのも 面白い話であるが、事実ではない。 石田三成が本陣を置いたとされる「笹尾山」のある 玉村 は 主戦場になっていない。 また 徳川家康が戦場で 陣頭指揮を取ったという話も事実ではない、 家康が関ヶ原周辺に着いた時には 西軍 はすでに潰走していたはずである(p265)

・西軍によるクーデターの全容を知り 8月に西上作戦を開始した時点で家康は この戦役を毛利輝元との和談交渉によって終わらせるというビジョンを持っていた、 そして 西軍の主だった者たちへの交渉 ルートも この時期までに確保していた。 一方の西軍は「内府ちがいの条々」を出したことにより、 あるいは 伏見 城を奇襲によって陥落させたことにより和談交渉の可能性を自ら断ってしまった、西軍 首脳部は戦いを終わらせる プランを持っていなかった (p289)

・9月15日の合戦については戦いが始まったのは、西軍の宇喜多・島津・小西・石田 らが小早川秀秋を成敗しようと、 山中 方面 へ向かったためであった、 西軍で最初に崩れたのは大谷の軍勢 だったが、 そのことと 小早川秀秋の裏切りは無関係であることを 筆者は 問題提起した、 さらに 家康は関ヶ原の戦い以前にすでに天下人 であった(p293)