・近世までの西ヨーロッパでは、 公式文書や教会の記録は、全て ラテン語で記されていた 。それはローマ帝国の比類なき栄華と、 同 帝国によるキリスト教の国境かを 要因とする(p28)
・11世紀の中興を経て 内乱で混乱中の1204年、第4次十字軍により帝都 コンスタンチノープルを占領され ビサンツ帝国は一旦 滅亡した。 しかし 1261年に復活を果たす、 しかし 超大国としてのプライド こそ保ちながら、 都市国家に毛の生えた程度の一 地方政権に過ぎなかった(p33)
・ダマスカスを首都としたウマイヤ朝は、 ムハンマドのイメージには想像もできなかった大帝国へと成長を遂げる、 これは武力 一辺倒でかなったものではない。 各地で 迫害にさらされているマイノリティの内応や協力に負う部分も大きかった (p40)
・トルコ系の突厥にソグド人が協力したように、モンゴルにはムスリム商人が味方した、税関のない 巨大な 統一商業圏が生まれれば 途方もない 利益が約束されたからだ(p45)
・ オスマン帝国のスレイマン1世の遠征の中で最も強く 歴史に刻み込まれたのは、1529年に実施した第1次ウィーン 包囲であった、 あいにくの寒波と長雨で進軍は大いに 遅れ 大砲のほとんどを途中で置き去りにした、 これにより ウイーンは最大の危機を逃れたが、この事件が 西欧 カトリック 世界に与えた衝撃は1453年の コンスタンチノープル陥落、すなわち ビサンツ帝国滅亡の比ではなく、身分の上下に関係なく 誰もが オスマン帝国に対する畏敬の念を新たにした(p55)
・ 列強と呼ばれる国々では、イギリスを皮切りとして、いわゆる 財政 軍事国家への転換が図られていた。財政 軍事国家 とは、 政治・ 財政・ 軍事 を巧みに 組み合わせ、 資金・ 命令下達から実行までの流れを迅速にする国家 システムのことで、イギリスは他国に先駆けて これを成し遂げていた、従って イギリスは、 海外進出において 先行したスペイン・ ポルトガル・ オランダを抜き去り 大きく引き離した 上、 フランスとの第2次百年戦争(1688-1815) をも(p71)
・ オスマン帝国の軍隊の主力が在郷騎士から常備軍に代わるに伴い、 ティマール制度(16世紀まで機能していた封建制度)は国家にとって不利益でしかなくなった、 インド洋を巡る派遣争いは、艦隊の維持と遠征に金がかかりすぎるとして手を引く 選択をした、 これにより 東西 交易の主要ルートは ポルトガルが開拓したアフリカ南端を迂回するものへと変わった(p73)
・ 第1次世界大戦においてスルタン(オスマン 帝国の統治者)は、イスタンブールに進駐 した 連合国との間でセーブル条約を交わし、 領土 分割に合意した。 これを 受け入れられない人々は アナトリア 中央部のアンカラに独自の政府を構え、 帝国政府とギリシア軍を主力とする 連合国に対して戦いを挑んだ。 連合国軍をアナトリアから 完全駆逐することに成功したアンカラ 政府は、スルタン制を廃止、 イスタンブールもアンカラ 政府の統治下に入り 連合国も承認した、1年4ヶ月後の1924年3月3日にはカリフ制の廃止も決議され ここに オスマン帝国の歴史は完全に幕を閉じた(p91)
・イギリスより早く オーストリアとスペインを2大拠点とし ラテンアメリカの大半と東南アジアのフィリピンを植民地としたのが ハプスブルク帝国である(16世紀から1918年)、 栄華の跡は現在も、 オーストリアのウィーン・ハンガリーのブダペスト・ チェコのプラハ・ スペインのマドリッドなどで目にすることができる (p94)
・ フェリペ2世は母と最初の妻が ポルトガル王室出身であることを大義名分として、 1580 年 に ポルトガル王位も兼ね、ポルトガル王としては フィリーペ1世と称した (p108)
・多くの 負の連鎖に見舞われながら スペインが超大国の地位を守れたのは 16世紀のスペインが世界で算出される銀の大半を掌握していたことによっていた、メキシコのサカテカス・ 南米のポトシ 銀山の発見、 及び水銀アマルガム法という新たな技術の導入により銀の産出量は飛躍的に増大した、その上 日本産(生野・石見)の銀もほぼ独占状態におき、 これらの銀は一旦 フィリピンに集められた後 本国に送られた(p114)
・ スペインは広大な 植民地を獲得したせいで奪うことになれ新たな産業を生み出す 努力を怠った、スペインと後の大英帝国の明暗がはっきりと分かれた要因はその点にあった(P115)
・ 30年戦争は1648年に締結された 、ドイツ諸侯の完全な国家試験を認めた 上、 カトリックとプロテスタントの同権化を購入させられるなど、 その内容は ハプスブルク家の力の限界を広く 内外に示すことになった(P121)
・ オーストリアはドイツ統一の輪から弾かれ、 ハンガリーとも 君主・ 外相・ 陸相・蔵相を同じくしながら それぞれ独自の議会と内閣を持つ、二重君主国に再編された(P135)
・ イギリス帝国では エリザベス1世 死後のスチュワート朝、ハノーバー朝のもとでは、 西アフリカと北米カリブ海地域の植民地、 イギリス本国を結ぶ 三角貿易が順調であった。 西アフリカで入手した黒人奴隷を、北米カリブ海地域に輸出する奴隷貿易は莫大な利益をもたらし、産業革命の始まりに欠かせない 最大の資金源となった、18世紀にはアジアでの三角貿易 も軌道に乗り、こちらではアヘンが奴隷と同じ役割を果たした(P193)
・イギリスがフランスに勝利できた最大の要因は、世界のどこよりも早く、 長期戦 や戦争の連続に耐える「 徴税 システム」を作り上げていたことによる。調整 請負人に頼らず、国家の完了が徴税に責任を持つ システムで、これであれば戦争に必要な費用を効率的に集めることができた (P191)
・産業革命前のイギリスにはこれといった輸出品がなかった、 そこで1) 贅沢品の生産地を植民地化する2)イギリスに有利な通商条約を結ぶ、3) 輸入に頼っていた製品の国産化を図る、 この3つを並行して進めていった。3番目の国産化の流れから生じたのが 産業革命であった、 贅沢品の中でも最も需要の高かったのは、インドさんのキャラコである、 綿織物工業に 始まった 産業革命は1830年代以降、 鉄・ 石炭を利用した重工業へと 主軸を移し、 それを支えたのが鉄道建設であった、 国内で主要幹線の敷設を終えた 1850年以降は世界中に 先端技術の鉄道を輸出する立場 となり イギリスは「 世界の工場」として君臨することになった(P199)
・ イギリスは「光栄ある孤立」に固執してることができなくなり 外交政策の大転換に踏み切る、 1901年 アメリカと「ヘイ・ボンスフォート条約」を結び カリブ海地域の派遣をアメリカに譲ることで、 英米協調 体制を構築した、1902年にはロシアの勢力拡張に対抗するため 西へ 同盟を締結した、1904年には 英仏協商を結び、 モロッコでのフランス、 エジプトでのイギリスの優先的地位を認め合うことで和解を成立させた(P211)
・240年も続いた「タタールのくびき」は、モスクワ大公国の台頭により 1480年に解消された、とはいえ 人口や 国力の点でも西に隣接する、 リトアニア 大公国には及ばなかった 、 東に カザン・ハン国、 南東に アストラハン・ ハン国、 南にクリミア・ハン国、はスウェーデンに囲まれていた (P225)