・公儀の大名統制システムとしての天下普請と参勤交代は、経済発展のカギであった、全国規模の水運網と流通機構の成立により、全国の富が江戸に集中した(p33)
・天下普請は、戦国時代以来の戦闘集団の維持・強化に費やしていた資源を、国土開発・幕政強化とともに民生部門に転用させることができた(p34)
・大名の両国経営は、将軍から委任された行為であり、具体的な運営方法は公儀の支配から独立した形、従って、換金銀を行う場(市場)は民間ベースで運営されており、大阪がその中心(p41)
・公儀とオランダの貿易独占方針とが一致したので、直接的にはオランダと明・清のみを貿易相手国として、管理貿易(オランダ:銀3000貫、清:6000貫)とした(p44)
・家康が関が原で勝利した後に、毛利家は石見銀山を差し出して、改易を免れた(p48)
・東は金遣い(金1両につき、米xxx石:定額計数貨幣)、西は銀遣い(米1石につき、銀xx匁:秤量貨幣)であったが、それ以外に銅(銭)も本位貨幣として通用していた(p48)
・金遣いの江戸においても、上等な茶・材木・呉服・薬品・砂糖・塩・職人の賃金は、銀建て、吉原の遊興費・書画・骨董といった高級贈答品は金建て、庶民の日常品や旅籠の宿泊料は銭建てであった(p49)
・享保改革の時期を過ぎると、年貢収入に依存した公儀財政はさらに悪化して、商品流通に財源を求めるようになった(p96)
・樽廻船の新酒輸送レース(毎年2月頃)で一位をとると、1年間は優先的に出帆可能、販売価格の交渉権を保有等のメリットがあった(p123)
・株仲間において、公儀の規則に触れた場合は、加入者全員が連座して処罰の対象となった(p173)
・新規業者は、同業者一同の承諾を得る段階から、弘メ(披露目)と町年寄への届出という一連のプロセスを経て、その業界における営業活動を行える条件が整った(IPOに等しい)(p176)
・当時の株取引による経営譲渡は、現代の合併・買収(M&A)に相当する側面を持っていた、ただし現代と異なるのは、実業としての事業経営を効率的に行うことを重視した(p194)
・江戸の都市行政、経済政策は、南北町奉行とわずか330名の与力・同心が処理していた、この理由は、町年寄などを使った間接統治システムの成功にあった(p233)
・大名が改易された理由として、「公儀に公認された跡継ぎがいない」という事情のほかに、「百姓一揆の責任をとらされる」ということもあった、これは公儀から委任されている領国経営に失敗したものと看做されたから(p238)
・諸大名や町人から与力・同心への「付け届け」は、賄賂ではなく、領収書も発行される合法的なものであった(p243)
・幕臣の次男、三男は、養子となる他にも、勘定所といった公儀の官僚機構の下僚(ノンキャリ)になるコースもあった、そのために昌平坂学問所での勉学に励むことが多かった(p247)
・鎖国下ではあったが、長崎貿易や薩摩の琉球貿易、朝鮮との国交継続とは別に、大陸・蝦夷地を含む環日本海沿岸と東シナ海で北前船や西回り廻船が国際貿易をしていた(p252)
・明治維新によっても、社会システムの根幹にかかわるような断絶はなかった(p279)