suu3.jp 戻る

summary

本能寺の変 四二七年目の真実

本能寺の変 四二七年目の真実の写真

・「敵は本能寺にあり」と号令した云々は、本能寺の変から数十年以上たった江戸時代に書かれた軍記物と呼ばれる全くの創作物である(p17)

・「時は今あめが下なる五月かな」という写本が残っているが、これに基づくと、「今は五月、雨が降りしきる五月である」という意味となる(p20)

・問題となった連歌は、当時の天気の記録から、5月28日ではなく、5月24日となる(p25)

・秀吉が指示して書かれた「惟任退治記」には、信長を崇め奉る記述が一切ないというのが特徴(p30)

・光秀は義昭・信長二重政権の義昭方の行政官として共同執務を行い、かつ幕府奉公衆であった証拠があるにもかかわらず、歴史研究では無視されている(p49)

・解明された事実によると、光秀は、最初は細川藤孝(1565年まで)に仕えた後に、足利義昭に1571年まで、その後に信長に仕えている、通説では、1560年までは諸国放浪、後に朝倉義景(1566年)に仕えた後に、信長に仕えたことになっている(p53)

・1576の石山本願寺攻めでは、光秀は天王寺城に逃げ込んで包囲された、それを知った信長は自ら出馬して救出した、1579年の丹後・丹波平定では光秀に感状を与えてまでいる(p55)

・信長が秀吉のもとへ光秀を派遣したのは、信頼している光秀に妥当性を確認させようとしたためと考えられる(p58)

・光秀家臣団には、他にはない大きな特徴として、多くが「倒産会社の社員=信長に敗れて光秀に組み入れられた」であった(p76)

・第一次構造改革(1580)では、譜代の家臣(佐久間信盛、林通勝、丹羽右近等)が追放、第二次改革では、実力派から織田家直轄(信忠、信雄、信孝)への再編であった(p81)

・1582年に武田勝頼を天目山で滅ぼしてから、信長にとって家康との同盟の価値はなくなった、逆に障害となった(p90)

・このままでは土岐明智氏は滅亡するという危機感が、光秀が謀反を考えるに至った最大の原因と考えられる(p117)

・信忠が上洛するという情報を光秀は掴めなかったので、光秀は同時に信長と信忠を攻めることはできなかった、信忠の存在は二条城に立て籠もるまで不明であった(p134)

・有名な言葉である「是非に及ばず」とは、「是か非か確かめる必要なし」という意味である、「仕方が無い、あきらめ」ではない(p135)

・今まで国内になかった2つの情報(安土城での二人の諍い、信長の最後の言葉)は、イエズス会関係の記録にだけは残っている(p145)

・関が原の戦いで秀忠が遅れたのも、わざと徳川本隊を遅らせて、力を温存させたという考えたかたもある(p151)

・本能寺の変後に、家康は直ちに、甲斐・信濃への進攻を開始したが、この織田家への敵対行為はだれからも責められなかった(p170)

・清洲会議では、信雄が尾張・伊賀・南伊勢を、信孝が美濃を領有することが決定されたが、甲斐・信濃については不問とされた(p188)

・秀吉は、織田家一族をことごとく家臣とした(p194)

・秀吉は、信長による家康討ちの計画、光秀謀反に家康が加担していたこと、長宗我部元親が光秀とつながっていたことをすべて知っていた(p211)

・光秀に対する道義的責任と恩義の念を家康が示している例として、斉藤利光の娘(後の春日局)を家光の乳母にしたことがある(p256)

・家光=家康+光秀、忠長=秀忠+信長から考えると、家康の思い(実現できなかった光秀・家康連合政権を家光が担っていることを示している)のか?(p259)