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summary

謎手本忠臣蔵 (上)

謎手本忠臣蔵 (上)の写真

・家康が関が原の戦い時に、家康が福島正則に与えた保障として、「秀頼を地方大名として残さなかった場合には、その誓書の持参者に江戸城を明け渡す」という内容を記述したものがあった(p36)

・当時の官僚である目付は、徒頭・小十人頭・御小姓からの、先輩目付の投票により選ばれ、若年寄の認可を経て就任する、年功序列とは全く異なる実力主義のシステムであった(p62)

・綱吉時代の銀換算700貫は、金換算すると、9300両となる(p127)

・当時の大名が直接抱える藩士は、平均して禄高の3厘(0.3%)以下であり、赤穂浅野家(公称:5.3万石、塩収入入れて6.5万石程度)の場合は150人程度、それに対して実際は200数十人であったので多い(p129)

・内蔵助が会得した剣法(東軍流)は、最初から相手の絶命を狙うことを意図せず、もっぱら耳・指・腕・脚を切って相手の戦闘意欲を失わせることにある、剣が刃こぼれすることもなく、何人相手にしても戦闘能力が落ちない、やられた敵が生きているため、僚友は放置するわけにもいかず、さらに戦闘能力は下がる(p270)

・女一宮(将軍家光の姪)を次期天皇(明正天皇)にすることで、女帝は夫を持つことがないため、徳川の血統を一代で終わらすことに成功した(p312)

・旧来の「宣明暦」は862年に唐からもたらされていたが、800年間において誤差を生じていた、それを日本向けに工夫したのが「大和暦」で、織田信長が変更しようとしてから102年後の1684年に採用された(p321)

・秀吉は、金(慶長大判、小判)を褒美にあたえる「見せ金」として、流通には、銀と銅を使う、二重貨幣政策を採っていたが、家康はこれを理解できず、生活貨幣に金を混ぜるという愚を犯してしまった(p335)

・元禄小判発行による慶長小判との出目(金の差額利益)は、5000万両(3兆~5兆円)に及んだので、綱吉も四代の家綱同様に浪費を続けることができた(p336)