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新説 桶狭間合戦 知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相 (学研新書)

新説 桶狭間合戦 知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相 (学研新書)の写真

・我々が桶狭間について知っている内容は、信長記に基づくが、これは1604年(慶長9年)に書かれたものである(p18)

・今川と織田信秀の動員力は以前は変化無かったが、1554年に今川・北条合戦が和睦になり三国同盟(今川、武田、北条)ができたため差がついてきた(p94)

・1552年には今川家の分国支配の基本法令(今川仮名目録)を出す等、検地も進み、直轄領も増えていた(p99)

・戦国時代の常識として、3日分の食糧は各自が持参するという自己負担の原則があった、それにも拘らず今川氏は駿府から沓掛の5日間の経費(現代の貨幣価値で1億円)を負担した(p139)

・織田信長が拠って立つ財源である津島、熱田を孤立化させ、経済的に干上がらせることが織田氏の軍隊編成を大いに弱体化させるという義元は素晴らしい大将である(p160)

・今川の最大動員力は2万とすると、5000を領国の守備に残す、さらに各砦に割くことを考えると、義元本隊は1.2万程度となる(p177)

・尾張八郡のうち六郡で36万石とすると、9000人の動員が可能、尾張各所に2000、砦に2000とすると、本隊には5000程度となる(p180)

・鳴海城を守備していた岡部元信は、佐々成政の猛攻に耐え抜いた、更には義元の首級を引き取った人物である(p227)

・大船団を率いて大高城に来航していた服部水軍は、予定していた今川兵を積載できなかった(p242)

・信長は、別働隊による迂回攻撃戦術は、姉川の戦いや長篠の戦においても利用したもの?である(p245)