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八月十五日の神話

八月十五日の神話の写真

・7月28日の新聞に掲載されている記事には、「米英重慶、日本降伏の最後条件を声明」とあって、米英ソの共同声明でなく、ポツダム会談に参加していない重慶政府(中国)が名を重ねていて、参加したソ連は欠落している(p17)

・ポツダム会談中の選挙でチャーチルは破れて、会議半ばの7月28日からは労働党の新首相アトリーと外相がイギリス代表となったが、25日にトルーマンの宿舎を訪れて署名を同意して帰国した(p20、25)

・今日「ポツダム宣言」と呼ばれている「三国声明」は、米国国務省の知日派が作成したものをバーンズ国務長官が仕上げたもの(p22)

・当時の日本列島の本土防衛は東と西に二分されていて、第一総軍(司令部東京)と第二総軍(広島)であり、第二総軍司令部の隷下に、中国軍管区司令部(広島)と西部軍管区司令部(福岡)があった(p31)

・ポツダム宣言の受諾そのものは、8月10日の午前2時30分、天皇の聖断で決定し、外務省は中立国のスイスとスウェーデンの日本大使館を通じて、交戦各国に伝達を依頼した(p62)

・航空艦隊には空母はなかったが、5航艦司令部隷下の航空隊は、多くの部隊が健在であり、玉音放送のあった夕刻に、11機の艦上爆撃機とともに最後の特攻攻撃をした、合計で3500とも5000機ともいわれる特攻機が待機していた(p76、77)

・本土決戦は二段構えで、海岸線に配備された新設の連隊と、日本奥地には新鋭部隊が秘匿されていた、航空機で1万機以上、戦車3000台以上、毒ガス爆弾は1万8000発以上(p95)

・爆撃機を含む航空機の多くは、戦力温存のために日本海側の飛行場に疎開していた(p95)

・占領先遣隊を迎えた接伴副委員長の鎌田陸軍中将は、先遣隊の隊長(テンチ大佐の上司であり顔見知りでもあった(p106)

・千円だけもって朝鮮へ帰還するかどうかを迷っているうちに、朝鮮戦争が始まり、200万人は帰国したが、60万人は日本に留まった(p141)

・昭和20年の秋は明治以来の凶作となった、大量の爆弾の煙が成層圏まで舞い上がり日差しを減らしたため、艦船の沈没は海面を油膜で多い海水の蒸発を遅らせ巨大な台風となった(p149)

・日本政府は450万トンの食糧援助を要求して、GHQは100万トンに削って本国へ要求、政府は70万トンを認めた(p150)

・日本国内で空襲を経験しなかったのは、奈良県・鳥取県・石川県と箱根地区である(p160、161)

・昭和13年の防空法制定により、空襲があった時は老若男女を問わずに消火活動をする義務があり、空襲から逃げると罰金(500円:将官の年棒レベル)があった、学童疎開の真相は、防空義務の足手まといを去ることと、次世代の戦力培養であった(p193)

・学童疎開は有料で、一時金:200円と、毎月20円以上の生活費が必要、公務員の初任給が月収75円の時代(p193)

・日本が占領を脱して独立したのは、昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和条約の調印による、条約発効は27年4月28日(p213)

2010/09/05作成