・長崎に原爆が落とされた時には空襲警報がだされることはなかった、本土防衛のために海軍には戦闘機部隊(紫電改)とそれを駆使できるパイロットがいた(p4)
・特殊情報部には、B29による空襲がいつ、どこに行われるかという
情報が集まっていた(p23)
・海軍による外国情報の収集は、新座市の大和田通信所で行われていた、陸軍は北多摩通信所(p29)
・戦争半ばには機械化に遅れた日本はアメリカ暗号をまったく解読できなくなっていたが、暗号の中身がわからなくても敵の戦略意図を予測できる独自手法を、大和田通信隊で開発した(p41)
・発信元を識別するための冒頭につけるコールサイン(「2けたの数字+V+3桁の数字」)は暗号化されていないことに気づいた(p43)
・日本の原爆開発は1940年頃から理化学研究所の仁科博士が、陸軍の航空技術研究所に対して可能であると伝えて始まった(p78)
・陸軍が二号研究(原爆開発)に投じた資金は多く見積もって2千万円(500万ドル)であり、アメリカ(マンハッタン計画):20億ドルの0.25%、B29の開発には30億ドル(p84、105)
・当時の陸軍がウラン鉱石として目を付けたのが、福島県石川町(p86)
・日本本土への初めての空襲は、1944.6.16の北九州の八幡地区であったが、1944夏にマリアナ諸島が陥落してから、本格化した、対日爆撃の総司令部はグアム島(p106)
・司令官(ハンセル准将)は標的を日本の軍事施設・軍事工場に限定した精密爆撃に拘ったため、効果が薄いとして1945.1.20に更迭、カーチス少将が指揮を執るようになって焼夷弾を用いた地域爆撃となった(p106)
・原爆目標検討委員会では、京都・広島・横浜・小倉がリストアップされ、京都と広島は特に有望とされた(p120)
・1945.7.16に核実験に成功したのは、長崎型のプルトニウム型(p125)
・1945.6.30になって陸軍は、すべての航空部隊をまとめて航空総軍として編成し、敵機に対して有効な反撃を行う指示「制号作戦」が出された(p133)
・1945.8.8に通信班にお金(10円:現在の物価で2万円)が配られた(p174)
・当初の予定の小倉が変更となったのは、前日の八幡製作所の空襲による煙により目視ができなかったから(p186)
・長崎原爆投下の一日前の空襲に対して、343航空隊に配備されている紫電改も出撃していて、B29が飛ぶ高度1万メートルでも飛行可能でB29に対抗しえる数少ない戦闘機であった(p190)
・当時、3発目の原爆がテムニン島(B29出撃基地)に到着するのは早くとも9月になると見込まれていた(p216)
・原爆投下後の調査は、陸軍省医務局から東京帝国大学に主導権が移された、医務局と東大との密接な関係、軍部解体による(p249)
・原爆投下による残留放射線は人体に影響をおよぼすほどの被爆をもたらしていないというのが、アメリカ、そして日本政府の共通の見解(p275)
・原爆投下後と東日本震災後の政府の対応には類似点が多い、1)被害の実態を過小見積もり、炉心溶融も認めず、2)敗戦後に諜報記録の焼却、原子力災害対策本部の議事録を残してない等(p278)