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summary

天地雷動

天地雷動の写真

・元亀4年に武田信玄が没し、甲斐・信濃・駿河3カ国、飛騨・上野・遠江・美濃の一部、合計130万石、3.4万人の兵が勝頼に譲られたことになる(p10)

・武田家と他家が異なるのは、宿老たちのほとんどが武田家と重代相恩の間柄にはなく、信玄の抜擢人事によるもの(p15)

・この頃の徳川家康は、三河・遠江両国で50万石、1.3万人ほど、拠点は、岡崎・吉田・浜松・高天神の4城(p21)

・この頃の羽柴秀吉は、北近江3郡を保有、信長は、尾張・美濃・伊勢・山城を中心に11カ国400万石、10万の兵(p35、39)

・北条氏は、細部まで整備された法制と評定制度で、武田・上杉の精神的主従関係に対抗した(p38)

・戦国大名は、他国の侵略者から領民を守る見返りに、年貢・賦役といった税を徴収していた、その約束が果たせない場合は、領民は耕作地を放棄して欠落逃散、領土に荒地が広がる、戦国大名は、政治・軍事両面において競い合う存在であった(p55)

・信長は、家臣個々の適性を見抜き、適材適所を心がけていた。桶狭間で今川義元を討ち取った毛利新助は、馬廻りで後進指導をしている、今井宋久は、摂津に2.2千石の所領、摂津5箇所の代官職など(p65、83)

・応仁の乱により、幕府と大内氏の関係が悪化し、瀬戸内通商航路が閉ざされたので、紀伊水道から土佐沖を通る南海航路が使われた、これにより尼崎、神埼がさびれた。それまでは堺よりも栄えていた(p136)

・この時代の銀1貫目は、約100万円相当、3000張の鉄砲に銀15貫目と信長は宋久に交渉した(p141)

・玉薬の欠乏と信長の勢力伸張は、真綿で首を絞めるように武田家を苦しめており、それを打開するには徳川領奪取しかなかった(p218)

・酒井忠次に率いられた部隊には、鉄砲500と4000の兵であり、大野川南岸の諸砦に陣をしく武田軍はひとたまりもなく蹴散らされた(p311)