suu3.jp 戻る

summary

明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫)

明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫)の写真

・光秀が犯行に及んだのは、信長非道阻止説である。正親町天皇に対する譲位の強要、暦に対する口出し等、すぐ側で見ていた光秀が、それ以上の信長の暴走を阻止するためにおこしたクーデターであると結論づけた(p7)

・信長は三好三人衆の来襲を知って、岐阜から京都に戻り、再び敵に襲撃されても大丈夫な将軍義昭のために築いた城が二条城である(p66)

・最初に光秀が得た500貫の場合、家臣は70人位いただろう、そして一国一城の主となった志賀郡5万石では、1250人であろう(p101)

・信長が義昭を追い詰めることができなかったのは、その時期には、武田信玄が三方が原で徳川家康を破って西上途中であった(p103)

・幕府が滅亡したことで、公方衆とよがれた旧幕府衆のかなりが光秀家に組み込まれることになった(p104)

・秀吉は最下層の小者から、小者頭、足軽、足軽組頭、足軽大将、そして侍大将へと短期間において出世した(p106)

・信長家臣の場合、信長から名物茶器をもらって初めて開けることになる(p113)

・本能寺の変の頃は、摂津の池田恒興、中川清秀、高山重友が与力となっていて、大和の筒井順慶、丹後の細川藤孝、一色義有、を始めとして、畿内周辺諸国の武将たちのかなりが与力となっていた(p143)

・穴山梅雪は、金2000枚を献上した、金1枚とは10両、現在価格で250万円なので、合計50億円となる。これは支配下に、甲斐下部の湯之奥金山、駿河の麓金山をもっていたからだろう(p170)

・光秀軍において最高の3000を擁していた斎藤利光隊が崩れたことで、早くも戦いの帰趨は決まってしまった(p249)