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summary

影武者徳川家康 上 (新潮文庫 り-2-5 新潮文庫)

影武者徳川家康 上 (新潮文庫 り-2-5 新潮文庫)の写真

・年齢の差があると、つまり老人の男性から見ると、同じ悪女が「可愛い悪女」に変わる。女性が変わるではなく、そうした性のすべてを見抜いた老人の目には、それが可愛く見える(p107)

・関ヶ原に進撃を開始する以前の手紙は93通、9月1日から岐阜赤坂に到着するまでは34通、関ヶ原から大阪城到着は16通、さらにこの時期の手紙は感情を押し殺した形式的なもの(p117)

・無縁寺とは、現代風にいえば一種の治外法権、どんな大罪を犯した者も俗世間との縁を切られ、世間の法や復讐を免れることができる(p121)

・中世から関ヶ原の戦いのころまで、農民の国主・大名に対する最も有力な抵抗手段は、逃散(土地を捨てる)であった(p127)

・長嶋の戦い(第一戦)は織田軍団の惨敗、このとき氏家卜全は死亡、柴田勝家も手傷を負った。信長の怒りは恐怖に変わり、一向一揆は根絶やしにするしかないと考えるようになった(p169)

・もし家康が関ヶ原合戦に生き延びていたら、あるいは二代将軍秀忠は存在しなかったかもしれない。秀忠に対する家康の失望と怒りは容易にわかる(p231)

・イエズス会の宣教師による貿易は、日本人男女の奴隷の売買も入っていて、日本の植民地化を狙っていたといわれても仕方ない部分がある(p258)

・家康は、左右大臣や関白では天皇を中心とする貴族政権に権力はもてても、武家階級を統率する権限を持たないことを知っていた。征夷大将軍として武家の棟梁となり、天皇から政権を委任される形をとるのが一番よい(p268)

・西軍に属した武将は88人が改易(領地没収)で総額は416万石、5人の厳封分を合わせると、632万石で全国の34%に相当する(p307)

・移動となった武将のあとには徳川一門や譜代大名が引き継いでいる、68家でこれに1万石以下の旗本を入れると260万石超、直轄地は250から400万石(p308)

・豊臣家は膨大な領地を所有していたが、代官を派遣せずに、各地の大名に預けて領民支配と年貢徴収を行っていた。その大名が潰されると、豊臣家の土地がなくなった。そのため200万石と言われた領地は65万石となった(p310)

・東洋航路は長い間、スペインとポルトガルに独占されていた。スペインの無敵艦隊が制圧していたので。オランダとイギリスが東洋に乗り出せるのは、1588年に勝利してから。それでもまだ戦争は続いていた(p356)

・1600年ころのユリウス暦は、現在のグレゴリオ暦と比較して10日遅い(p357)

・オランダは、シベリア北海岸を伝って東洋の海上に出る航路(北東航路)を、イギリスは北極圏からアメリカ大陸の北を巡る北西航路の探検をしていた(p379)

・筒井順慶は日和見主義者の代表のように言われるが、本当は、光秀側の情報情報をいち早く掴んだから。(p457)

・男は途方もない夢を見るから不完全、女は現実的な可能な夢しかみないから完全と言われる(p479)

・家康は、足利義満以来、将軍兼職の伝統を持つ、源治長者、淳和・奨学両院別当への補任、牛車・兵仗の許可、右大臣転任の宣旨を同時に得た(p638)