・漢民族以外で、漢字や「論語」を本気で受け入れたのは、朝鮮半島、ベトナム、17世紀以降の日本など、集約農業の国ばかり。人間関係の潤滑油として、上からの政策として論語を導入した(p6)
・今日では最高の古典とされる論語は、意外にも初めのうちは経典より格下の雑書として扱われていた、論語というタイトルもずっとあとになってからの命名、それにあたる書物は、「伝」と呼ばれていた(p20)
・論語は、孔子の死後に編纂された書物なので、孔子自身の筆は加わっていない、孔子の無名の孫弟子あたりの著作(p23、28)
・昭和は書経から、平成は、書経と史記が出典である、大正は書経と並び儒教の最高の古典とされた易経、論語は長い間、格下の二流の書物とみなされていた。論語の地位が高まるのは、11世紀、新儒教の時代から(p25)
・歴史に大きな影響を与えた儒教の人物は、孔子、孟子、荀子、朱子、王陽明の5人(p27)
・古代中国において、経典は2種類、最も重要な先王の言葉や思想を伝える古典は「経」、この「経」の意味内容を補完する伝承を記した古典は、「伝」(p31)
・経典の数は当初は「五経」だったが、時代が下るにつれ、6,7,9,11,13と拡大された。7経の段階でやっと6番目にカウントされた、宋の13経でも徐哲は10番目(p33)
・朱子は、大学、論語、孟子、中庸、の4つを「四書」として選定した。四書の「書」は、書経の意味ではなく、書物という意味。まず四書を、そのあと五経を学ぶのが朱子学のコース。朱子学以降、「四書五経」が儒教の必読書となった。(p36)
・孔子は、本格的な中国史が始まる前に生きた古い人物、孔子が生まれたのは、年次が特定できる最古の時代から300年程度しか経過していない、総人口も500万人程度(p39)
・旧暦で、孟秋(7月)、仲秋(8月)、季秋(9月)という、兄弟の順番で、長男は孟、まんなかは仲、末っ子は季、と呼ばれた(p71)
・孔子の時代、人間の身分は、王・候・卿(けい)・大夫・士・民・奴婢、であった(p74)
・孔子が理想とした周の礼では、士が修めるべき「六芸」は、「礼、楽、射、御、書、数」の6教科であった、礼儀作法、音楽、弓術、馬車操縦術、国語、数学(p103)
・孔子の有名な詩は、意訳すると、「わしは14までは学問が好きでなかった、29まで自立できなかった、39まで自信がなかった、49まで天命をわきまえなかった、59まで人の言うことを素直に聞けなかった、69までやりたいことをするとやりすぎた」(p127)
・漢文の中にある漢字を、音読みで読むか、訓読みで読むか、しばしば擬音感によって決定された(p136)
・江戸時代になるまで、孫子は秘伝であった、どう訓読してどういう意味か、学者に解説してもらわなければ分からなかった。それを学んだ武将は恐れられた。しかし江戸時代になって秘伝ではなくなった、お金さえ出せば、誰でも返り点を印刷した書物を買えた(p151)
・孔子の思想によれば、政治の要諦は、「食・兵・信」の3つである。政治家はまず食糧を確保し、次に軍備を充足し、そして人民の信用を得る。最も必要なのは信用である(p182)
・家康だけが、信長、秀吉と異なり、子々孫々にわたり権力を維持できた、その秘密は、漢文の知識に精通したブレーンの入れ知恵で、儒学による武士の思想改造を行ったことにある(p196)
・日本には科挙のような漢文の試験はなかったが、その代りに寛政の改革のときから、素読吟味や、学問吟味、という制度が始まった。論語などのテストに合格しないと、家も継げないし、幕府の役人にもなれない。武士の子供は、論語など、四書五経を必死に暗記するようになった(p215)
・明治生まれの人は、幼児のときにみっちり「論語」など「四書五経」の素読を叩き込まれていたので、理科系学者や技術者も漢文の素養を持っていた(p232)