・二千貫とは、米で四千石となり、兵を二百人ほど抱えていることになる(p16)
・戦況が悪くなれば、足軽は逃げる。戦のたびに領地からかり出される百姓である。これを領主は咎めなれなかった、それをすると田畑の耕し手を失ってしまい年貢が減る。敵方も反抗しない限り、見過ごされた(p41)
・信玄公には天下人に足りないものがある、地の利である。甲斐は京に至るまで、どれだけの大名を切り従えなければならないか(p60)
・武士ではなく、百姓が支配する領土、これは戦国大名にとって決して認められるものではなかった。朝倉義景は何度も一向一揆と戦った(p65)
・三好長慶の最盛期は、阿波・淡路・摂津・和泉・讃岐・山城・播磨と河内の一部を手中にした、与力する大名の勢力圏として、近江・若狭・伊賀があり、ほぼ畿内すべてを勢力下においた(p74)
・兵は一日に5合のコメを食べた、6万人とすると、1日に三万升、1か月で9千石、米以外の味噌・塩・漬物を換算して加えると、一万石を超える(p75)
・挟み撃ちにしておきながら信長を打てなかっただけでなく、被害を与えられなかった、浅井・朝倉の武名は落ち、殿を務めた、羽柴・明智・徳川・池田の名をあげた(p119)
・泰平を守るために必要なモノは、力ではなく、明日が確実に来るという安心感である(p187)
・領地を保護してもらう代わりに、軍役を請け負うのが決まりであった、もし出兵に代償を要求すれば、己の領地が敵に襲われた時の経費は負担しなければならなくなる。いざという時に守ってもらうためには、赤字であろうとも兵をださざるを得ない(p189)
・足利義輝は、京を追い出されてから、より熱心に大名との連絡を取った。九州の大友を筑前、豊前の守護に任ずるなど、他には、上杉信玄輝虎を始め、伊達輝宗、毛利輝元など、有力な大名に将軍の名前の一文字を与える偏諱を多発した。貰った大名は当然、足利義輝に恩を感じる(p208)
・信長は莫大な富により、本来は農閑期に徴兵する百姓を農作業から分離し、絶えず利用できる兵にした。これにより十分な練度をあげられるようになり、弱い尾張兵を鍛え上げた(p211)
・石山本願寺が手強いのは、「死ねば極楽に行ける、この辛い現世から解放される」と僧侶が保証している。武士は命が惜しい。一揆の衆を倒しても手柄にならないというのもあった(p251)
・普通の戦いでは、経験の浅い者、場の流れを読めない者から死んでいった、しかし、雑賀衆との戦いでは、勇猛果敢な者から鉄砲で打ち抜かれていった(p267)
・軍勢を率いて他国の領土を通行するには、名分とその他の大名の許可が要った。なしで入れば侵略となり戦いが始まる、これを防ぐのが、公儀・幕府の命であり、将軍の求めである。将軍の要請で上洛する軍勢の邪魔をするのは、謀反と同じであった(p331)