suu3.jp 戻る

summary

オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)

オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)の写真

・オスマン文化の発展と成熟を支えた要因の一つは、東西交易の繁栄であった。オスマン帝国は、北のアナトリア、南のシリア・エジプトという、当時のユーラシアの東西交易の二大センターを押さえていたので、15-16世紀にかけて屈指の経済大国であった(p18)

・キリスト教は合理的で寛容な宗教とイメージされ、これに対して、イスラム世界は閉鎖的・非合理的な社会、不寛容な宗教とイメージされているが、歴史的事実においては、少なくとも中世から初期近代までは逆であった(p19)

・オスマン帝国が驚くほど長期にわたって存続しえた秘密の一つは、ゆるやかな統合と共存のシステムにあった。宗教も言葉も強制しなかった(p22)

・すべてのムスリムにとって、1日5回の礼拝は必須の義務、とりわけ金曜日の昼にモスクに赴き、共同礼拝に参加することは、絶対に欠かせない義務であった(p78)

・メフネット二世は、イスタンブール再建にあたって、異教徒を3つの、ミレットと呼ばれる宗教共同体に組織した。ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒で、このいずれかに属させた。貢納の義務を課したが、彼ら固有の信仰と法・生活慣習のもとに、自治的生活を営むことを許した(p87)

・非ムスリムは、2種類に分かれる。偶像崇拝者である、コーランか剣かの選択を迫られる人たち、もう一つのカテゴリーは、唯一神を奉じ、神の啓示の書物を持つ人々で、啓展の民と呼ばれる。キリスト教徒とユダヤ教徒である、彼らには、コーランか、貢納か、剣かの3つの選択肢が与えられた(p91)

・西欧人による、いわゆる「大航海時代」は、このルート(シルクロード・海上の道)をムスリムが掌握していたことに起因する。大航海時代は、ポルトガル人やスペイン人などの西欧人の一部が、香料を産地で直接入手して大きな利益をあげるために起こした運動である(p109)

・1481年にメフネット二世が49歳で亡くなってから、オスマン帝国はイタリアへの本格的進出は永久に放棄された。ルネサンス文化を開花させつつあったイタリアがオスマン軍に席捲されていたら、世界史の歴史が大きく変わっただろう(p116)

・オスマン朝では、兄から弟へそして最年長の甥へという「年長者相続制の原理と、父から子への「父子相続制」の原理の二つが併存していたが、父子相続制が定着していた。しかし子供間の相続順位は不定であった(p117)

・アリの支持者の一部は、あくまでアリーとその子孫のみが全ムスリムの指導者たりえると主張しつづけた、対立する人たちは、彼らを「アリー派=(シーア・アリー)」を読んだ。シーアとは、「派、党派」の意味に他ならない。後のシーア派である(p122)

・ムルマーク朝(エジプト・カイロ)の領土を手に入れたことで、シルクロードのシリア・エジプトルートを入手、第二の交易路である海の道もオスマン朝の支配下に入った。メフネット時代の第三の交易路とあわせて、ユーラシアとアフリカを繋ぐ当時の海陸の交易ルートのほとんどを支配下においた(p135)

・16世紀当時の西欧と比較すると、オスマン帝国は、はるかに整然とした統一的な裁判制度を持っていた。中世から初期近代にかけての西欧には、領主の所領ごと、社会的身分ごとに、様々な法体系と裁判制度が混在していた(p194)

・幸運とコネさえあれば、一地方名士の子であっても、帝国中央でキャリアの頂点に到達できたのは事実、そういう意味でオスマン社会は開放的であった。(p215)

・オスマン帝国の社会には多くの事実上の世襲が存在していたが、血統や家柄にのみもとづいて自己固有の権利を主張するという、真に世襲的な貴族は存在できない構造になっていた(p234)

・1571年秋、西欧キリスト教世界の人々は歓喜にわきたった、10/17日に行われたレパントの海戦で、キリスト教連合艦隊が、オスマン艦隊に大勝した(p236)

・レパントでの敗戦後、8か月もたたない1572年6月には、250隻からなる大艦隊を再び地中海に送り出していた、西欧側は解散していた。(p239)

・徴税請負制の拡大は、新しい土地制度、農業生産の在り方をもたらした。初めは一年間であった期間は、次第に長期化していった。それにともなって、国有地であった土地が、徴税請負人の私有地的なものに転化していった(p244)

・後期オスマン帝国の領土喪失で最も大きいのは、1699年のカルロヴィッツ条約によって、ハンガリーの大部分をハプスブルク帝国に奪われた、1718年には、パサロヴィッツ条約で、ベオグラードさえ一時奪われた(p251)