・関ヶ原の戦いから約2年半後の慶長8年2月、家康は征夷大将軍に任官した。当時は関白こそが天下人の官職で、家康は天下簒奪をカムフラージュするために、将軍職を選んだ(p12)
・豊臣政権下の家康の名字は、「羽柴」であり、本姓は、「豊臣」であった、将軍任官に備えて、徳川名字への復帰と、本姓源氏への再々改姓をしたことは、羽柴名字・本性豊臣の放棄を意味した(p13)
・大坂の陣の原因は、鐘銘問題ではなく、関白型公儀の可能性が根強く存続し、秀頼が堂々とした武将に成長したことになる。すでに諸大名は、将軍型公儀に組み込まれており、孤立した秀頼に勝算はなかった(p19)
・西国に豊臣系の諸大名が配置されたことは、東国を家康が支配し、西国を秀頼が支配するという考え方に基づいている(p22)
・七将による三成襲撃事件において、家康邸に逃げ込んだとの通説は、近年の研究によって、伏見城内の治部少丸に逃げ込んだものと修正された(p131)
・室町、足利将軍家では、征夷大将軍に任官してから、近衛大将に昇進するというのが、基本的な昇進スタイル、その先例は、足利義満。征夷大将軍は、概ね、五位相当、近衛大将は三位相当である。秀忠が、征夷大将軍の前に近衛大将に任官したことは、従来の形式と大きく異なる、徳川幕府は、近衛大将に「次期征夷大将軍候補」という新たな格付けをした(p152)
・偏諱については、主人が名乗り(諱)の一文字を家臣に与えることで、二文字のうち上の字の方が、下の字よりも名誉とされていた。ただし、秀忠の上の字は、秀吉から下賜された「秀」なのでそれを拡散させるわけにはいかないので「忠」を与えた(p158)
・命をかけて徳川政権に抵抗した盛親の思いは、子孫、そして坂本龍馬ら、長宗我部家の遺臣につながる人たちによって、幕末の土佐から出た新しい時代を切り開くエネルギーとなった(p193)
・大坂の陣の当時、織田家で命脈を保っていたのは、信長の兄弟では、弟の織田信包、子供では次男の信雄である(p253)