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summary

蒙古襲来と神風 中世の対外戦争の真実 (中公新書)

蒙古襲来と神風 中世の対外戦争の真実 (中公新書)の写真

・弘安の役では、確かに台風は来たし、実際に鷹島沖に船は沈んでいる、ただしそこに全軍が碇泊してのではなく、旧南宗軍(江南軍)であった。高麗中心とする先遣部隊(東路軍)は大宰府間近にいた。台風通過の4日後の7月5日には、博多湾・志賀島沖海戦、7月7日に鷹島沖戦は継続された。この二つの海戦の結果、戦争継続は困難と判断した蒙古軍は、両軍ともに退却を決めた(はじめに、p3)

・元を盟主にすることが目標であったが、敵国たる宋を支援し続ける国が日本であった、通商関係は300年に及んでいた(はじめに、p5、p18)

・太平洋戦争中に、二つの台風がアメリカ機動部隊に被害を与えている、1944年12月18日のコブラ台風、1945年6月4日のヴァイパー台風、両方とも百機以上の航空機を失った(p7)

・宋から日本への輸出品は、銅銭、陶磁器、医薬品、銅銭を日本で鋳造しなかった理由は、中国から輸入した方が安上がりであった、銭一枚は日本の方がおおむね3-4倍高い価値があった(p9)

・日本からの輸出品の二大品目は、木材(ヒノキ、杉)と硫黄(火薬製造に必要)大宰府の外交である博多から出された(p13)

・900隻の船のうち、上陸用のスピード小艇(300)、水汲み用ボート(300)、母艦=千料舟(300)と、三種類の船がある(p23)

・文永11年10月20日を太陽暦に換算すると、ユリウス暦なら1274年11月29日、グレゴリウス暦(1582年から使用)なら26日となる(p35)

・弘安の役は、6月5日に前哨戦、8日が総力戦、翌日までも引き続く最大の激戦であった(p67)

・東路軍は兵士のみなら1万数千、江南軍はこれよりも多かったが、合計三万人強である。九州にいた日本兵力はざっと三万人程度(p78)

・鷹島沖に沈んだ船は、残留人員2000人という数字から判断して、20隻程度であろう。海戦は船の捕獲合戦であるので、10隻以上を失えば完敗であった、老朽化し、積載も過剰な、欠陥・問題のある船が沈んだ(p107、109)

・蒙古軍は日本軍の奇襲(煮立てた糞尿の投げ込み)に対して相当動揺した、この動揺が伝わり戦闘意欲を喪失した(p194)

・東路軍は2か月以上も待ち続けたが、江南軍はとうとう到着しなかった、この致命的な遅延は、東路軍に対する大きな背信である、結果としてこの遅れが台風シーズン到来に重なった(p218)

・神のおかげで勝ったという意識は、貴族、神官、僧侶には強くあったが、武士をはじめ当時の日本人の当事者意識に「神風」はなかった(p234)

・神風特攻隊は出撃した段階ですでに死者と認定された兵士には、戻るところがなかった、彼らは福岡市にあった陸軍施設、振武寮に収容=事実上の隔離をされた(p236)

・戦争に役立つ海軍兵学校、陸軍士官学校卒の職業軍人は温存、弾としての用兵に過ぎなかった特攻要員には、戦争遂行に役立たない文系大学生に、熟練パイロットとはいえない予科練出の少年飛行兵を組ませた(p238)