・いつも必死に戦っている者は、せいぜい全体の2割である、そして合戦は、春と秋を除いた季節に行われ、農繁期を避ける(p37)
・訓練の時は、申し分ない働きをしている者も、いざ戦いの開始となると、微妙に腰が引ける。そういうものが全体の6割、見方によっては8割いる、懸命な2割、漫然と働く6割、やる気のない2割(p59、6)
・勝家が思うに、自軍だけで勝てると思わなければ、戦いなど起こしてはならない、連携する勢力を頼みにして戦いをしかようなど考えが甘い(p106)
・およそ人の上に立つ者の資質で、愚かで軽率なことは、悪意よりもはるかに始末が悪い。悪意は、それを悟れば、態度や考え方を改めることができる(p122)
・桶狭間の戦い時において、信長の軍門に下っている尾張衆は、1万人ほどいるが、信用のおける弾正忠家系列の兵力は5千、最も信頼のおける配下は二千である(p133)
・名将とは、その根本の資質として、盛んに殖産を行い、何度でも戦を行える財力を蓄えていることである(p167)
・尾張は石高で言えば57万石であるが、商業で得た銭の貫高を石高計算して合わせれば、優に100万石以上の実力を有している、武田・上杉とそん色ない兵力を動員できる金銭的背景を持っている(p168)
・小牧山へ一族郎党をすべて連れて移転したものには、その旧来の所領の維持管理、年貢徴収を、織田家の文官が引き受けるという提示があった。織田家にとっては、彼らが個別に徴収していた年貢を織田家で一括管理できるようになった、岐阜城に移転したときには、文官・武官すべてを移住させ、完全な家臣化を進めた(p176、198)
・ダメな蟻でも、普通の働きの蟻でも、それだけを集めれば、必ずまた優秀な者が2割は出現する。どんな場合でも、何度やっても最後には、1:3:1となる(p213、218)
・思ったことが口から出るのではなく、口に出て初めて、実際にそれまで自分が考えていたことに気づく、およそ思考においては出てきた言葉が全てだ(p225)
・家臣を徹頭徹尾実力本位で扱うときは、相手に貸し借りがない場合である(p236)
・比叡山延暦寺の激烈な掃討戦には、二年前(1570)に凄絶な討ち死にをした森可成の仇を打つ意味も多分にあっただろう(p283)
・武田は徳川方の支城の中でも最も重要な二俣城を包囲した、この城を落とせば、徳川の本城である浜松城は完全に孤立するので、徳川は出陣した(p322)
・信長は、懸命に仕事をこなし、できる限り成功に向けて手を打ってきた人間には、たとえその結果がうまくいかなくても、あまり怒ることがない。その過程もちゃんと評価してくれる(p339)
・明智光秀が、堅田城を落としたやり方で、さらに大掛かりな仕掛けを行ったのが、長篠の戦(p373)
・1576年5月に、石山本願寺との戦いにおいて、塙直政が摂津での合戦中に討ち死にした、その余勢を駆って天王寺砦を1万五千の大軍で襲った。そこに明智光秀、佐久間信栄(信盛の子)はいた(p379)
・短期の集中決戦では、その兵の多寡以上に、軍を率いる総帥の資質がものを言う(p398)
・水野は、信長が尾張を統一する以前から、尾張と三河の国境周辺で24万石の所領を持つ大豪族であった、その意味では昔から自立した勢力(p376)
・効率をとことんまで極めていけば、人も草木も、ありとあらゆるものに効率を重視すぎると、全てが息をできなくなる(p435)
・人間、生まれ落ちる場所は選べない、しかし死に様は選べる、そういう死に方をするかだけば、およそ万物の中で人という生き物にのみ許された、末期の希望である(p438)
・石山本願寺の焼失により、広大な城郭・伽藍も全て灰燼に帰した、このような都市を形成するには、巨費と気の遠くなる期間が必要となる、なので信長の怒り狂いようは凄まじかった(p472)
・加増され、それを謹んで受けるということは、兵団の長として加増分の成功を、主君に対して先々で請け負うという契約に他ならない(p473)