・在村医の第一世代は、牢人上がりが在村医になった17世紀、18世紀になって医者を村が自前で出せる様になったとされる。しかしそれ以前の16世紀も、牢人上がりが、地域の医療の一翼を担っていたと判断するのが妥当である(p51)
・足利義昭麾下担って最初に獲得した所領は、年に300万円程度の収入が見込まれる所領であった、その前提は、一石=500文=30貫=300万円で、永禄十三年当時の相場から計算(p64)
・愛宕神社にあった勝軍地蔵は15世紀以来、軍神として足利家を筆頭に武家からの信仰を集めて、それと合わせて愛宕権現信仰も16世紀に流布されていた(p75)
・天正三年の夏の時点で織田政権が大量の人員動員を可能にしていた事実が明らかになる、この要因として天正二年以来に進められていた道路整備事業がある、これは当時から見れば常識はずれの企てであった(p99)同様に、規格の統一という発想も斬新であった(p175)
・天正四年には、息子信忠には尾張・美濃を与え、かつて光秀が有していた洛中土子銭も、信長の娘に与えられた、武将たちと前線に立たせて酷使する一方で、その内側にある整備の済んだ領地は一族に与えていた。織田家中の武将たちはこの時代としては未曾有の距離の行軍を強いられる様になっていた(p189)
・山崎の合戦にて、伊勢貞興を筆頭とする伊勢家家臣の多くも戦場で討ち死にしており、ここに室町幕府官僚の系譜を引く人々が歴史の舞台から消すことになり、人材の上からも中世は終わりを迎えた、光秀は自身が継承した統治のための人材は秀吉に渡さず道連れにした、なので全く新しい家柄から秀吉政権の完了集団が登用されて行った(p194)