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summary

織田信長

織田信長の写真

・1575年、信長は参内して大納言、右大将に任官された、無官の信長をいきなり大納言にするわけにもいかず、朝廷では前年に遡ってまず参議に任じたことにして、この年にさせたものとされている。この年に首尾良く「公家」になったものと思われ、この前後より、家臣たちは「殿様」という信長への呼称を改め「上様」と呼ぶようになった(p68)

・将軍足利義昭については、織田信長は将軍の権威を少なくとも否定しようとはしなかったし、天皇の権威についても同様に見ることができる。巷で言われているのとは逆に、信長は伝統的権威を蔑ろにするどころか、かなり気を遣っていたと思われる(p95)

・ルイスフロイスの報告書によれば、日本全土は56の国に分かれているが、その中で最も主要なものは日本の君主国を構成する五畿内の5つの王国である。それは、山城・大和・摂津・河内・和泉であり、その君主を「天下の主君」と呼ぶことが記されている。すなわち「天下」とは、京都を含む五畿内のことと認識されている(p108)

・織田信長は、足利義昭を主君として立て、自らは人臣として天皇を立てるというスタンスに徹していたと見た方が良い(p119)

・織田信長が諸大名との共存を目指し合議のもとに天下のありようを決めると宣言しているのは、従来の信長像に照らせば違和感があるかもしれないが、このような天下人の姿は当時の人々にはさして違和感のあるものではなかった(p198)

・佐久間信盛は、恥をそそぐために一戦するか、高野山へ剃髪・隠遁するかの選択肢のうち後者を選んだ、形式的には織田信長は信盛に最後の機会を与えた。信長は家臣への扱いを問題にしていて、細心の配慮を心掛けていたを見るべきようにも思える(p216)