・本能寺の変という、事件そのものを研究の対象にした文献には今までほとんど出会ったことはない(p21)
・自分の側近でさえ疑わなければならない時代に、誰と謀議をこらすことができるのか、言葉に出したときにはすなわち決行のとき、これが現実である(p32)
・本能寺の変が起きた天正十年は、ヨーロッパのカトリック国で重大な変化が起きた年、日本歴9月18日をもって、それまえのユリウス歴が廃止され、翌日からグレゴリオ暦に変わった。本能寺の変が起きた6月2日を西暦換算すると、ユリウス歴では6月21日、グレゴリオ暦では7月1日(p36)
・亀山から本能寺までの道のりの3分の1から半分を明智軍の隊列が埋めたことになる(p38)
・この時代の京は全くの要塞都市、市街は狭く、上京と下京の2つの市街は別れ、それを室町通りの1本が結んでいた(p42)
・鉄砲に火を点じた明智軍が、本能寺を目前にして、一列になって堀川を渡ったとしか考えられない(p44)
・瀬田城主の山岡景隆は、光秀に投降せずに、瀬多橋を焼いてしまい、これが光秀にとって最大の誤算となった、安土を衝くことができなくなった(p50)
・織田部隊の主力は、下京ではなく、上京にいた(p69)
・信忠にとっての誤算は、1)二条御所にくる織田兵が少なすぎた、2)近衛邸の屋根から鉄砲を撃たれたこと(p72)
・当時は基本的には不定時法、明るくなれば卯刻、太陽が真上にあったら午刻である(p77)
・信長上洛の翌日、40人もの公家が、それぞれ手に土産物を携えて本能寺に集まっていた(p99)
・光秀を本能寺に呼び寄せたのは、実は信長である(p110)
・光秀が1万三千人の軍団を集結させた真の目的は、全員を信長殺害に立ち会わせて、最後まで団結させること(p119)
・信長に殺された、国師であった快川和尚は正親町天皇から国師号を贈られていた、国師は、一世に傑出し、真に国の師に相応しい禅僧に対して朝廷が贈る最高の名誉で、1311(応長元年)から1937(昭和12)まで、70人ほどが贈られた(p144)
・領土の拡大は決して力の増大とは繋がらない、本能寺の変後に上野厩橋に置かれた滝川一益が敗戦したように(p154)
・征夷大将軍就任の条件は、一番強い者であること、源頼朝がなったのは、西の平氏・東の藤原氏を滅ぼしてから(p178)
・1573年に京を追放された足利義昭は毛利領内の鞆の津に幕府を開いた、これは実質を伴ったもので将軍であることに変わりなかった(p182)
・信長が戦った相手は、今川・斉藤・朝倉が1国、武田が5国であるが、当時の毛利は十余カ国であり途方もない強さ(p195)
・信長の全生涯を通して最大の敵を挙げるとすれば、足利義昭である、元亀の信長包囲網を作り上げた、本願寺、武田氏、上杉氏を動かしていた(p230)
・本能寺の変の本当の姿とは、信長による対朝廷クーデターの失敗、あるいは、示威行動の失敗である(p257)
・光秀は保守的な人だから幕府再興を目指したといわれるが、これは見当違い、光秀の思想や信条の問題ではなく、「それ以外に選択の余地がなかった」である(p266)
・織田政権にとって家臣を全国にどう配置するかが問題であった、同様の問題に徳川も直面したが、政権以前に関八州を領していたので、三河武士団への給地問題は相当解決できた(p305)
・当時の山陰は僻地ではない、イエズス会が九州や山陽に拠点があった、世界最大の石見銀山も山陰にあった(p306)
・本能寺の変の真実(光秀こそ朝敵である信長を討った忠臣である)は、次代の権力者羽柴秀吉によって封印された(p317)
・信長の全生涯を通して最大の敵を挙げるとすれば、足利義昭である、元亀の信長包囲網を作り上げた、本願寺、武田氏、上杉氏を動かしていた(p230)
・本能寺の変の本当の姿とは、信長による対朝廷クーデターの失敗、あるいは、示威行動の失敗である(p257)
・光秀は保守的な人だから幕府再興を目指したといわれるが、これは見当違い、光秀の思想や信条の問題ではなく、「それ以外に選択の余地がなかった」である(p266)
・織田政権にとって家臣を全国にどう配置するかが問題であった、同様の問題に徳川も直面したが、政権以前に関八州を領していたので、三河武士団への給地問題は相当解決できた(p305)
・当時の山陰は僻地ではない、イエズス会が九州や山陽に拠点があった、世界最大の石見銀山も山陰にあった(p306)
・本能寺の変の真実(光秀こそ朝敵である信長を討った忠臣である)は、次代の権力者羽柴秀吉によって封印された(p317)