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桶狭間の真実 (ベスト新書)

桶狭間の真実 (ベスト新書)の写真

・二つの幸運が信長に訪れた、1)各所にばら撒いてあった細作(忍びの者)のうちの梁田政綱から、今川義元の本軍が桶狭間の低地で休息中であるという報告がもたらされた、2)進撃を開始しようとした時、突然の豪雨が襲った(p22)

・最終的に勝ちを得るためなら、どんな卑怯表裏の振る舞いも厭わなかった、乾坤一擲の大博奕ほど信長に似つかわしくない戦いはない、武田信玄には臣下の礼を取らんばかりの媚態外交、交戦中の朝倉には降伏に近い和議を持ちかけて急場を凌いでいる(p27)信長の養女は勝頼との間に男子を設けたが死亡したら、信玄の六女を嫡男信忠の正室に迎えている(p30)

・三河幡豆郡(はず)の一部を領有し西条城にいた吉良氏は、今川家より格式が高く尾張における斯波氏のような地位を保持していたので、今川の傘下とは言い難かった、一時期は織田氏についていた形跡もある。奥平氏も交戦していて、義元にとっては頭の痛い不穏分子であった(p68)

・当時の今川家が尾張において領有していたのは、鳴海・大高・沓掛の諸城と、三河寄りの品野(科野)城、二の江、鯏浦城の土地くらいであろう(p78)

・今川の実質の領地は60万石程度、信長は30万石程度であり、兵力は今川軍1万に対して、織田軍五千が結論である(p87)駿河に夥しい数の細作をばら撒いてある信長にとって、今川軍の動員能力はほとんど筒抜けであった、今川が4万、5万と誇大な兵数を言っても信長は信じなかった(p90)

・今川の精鋭は、先鋒である岡部元康と、遠州掛川の城主・朝比奈の部隊である、朝比奈家は松平家とは異なり代々今川家の要職を勤めてきた重臣の家系である(p92)

・信長が相手に与える餌として「丸根砦・鷲津砦」を選択したのは、松平隊と朝比奈隊(今川軍の精鋭部隊)を誘き寄せ、今川本体から切り離すためである(p99)現実に戦闘に参加したのは、松平(2500)・朝比奈(2000)の両隊と義元の今川本隊(5000)、さらに数百単位の若干部隊という実情が明らかになってくる、今川軍2万五千はかなり水増しの数字である(p159、74)

・合戦当日の旧暦5月19日は、太陽暦では6月22日、つまり夏至の頃である(p148)