suu3.jp 戻る

summary

決戦!関ヶ原

決戦!関ヶ原の写真

・戦いを知らない者ほど、戦いで物事を決したがる。その逆に、戦いの怖さを知る者が戦いに踏み切るのは、ほかに手がない時である(p13)

・関ヶ原の戦い時の、岐阜中納言は、織田信長の嫡孫の秀信のことで、当時は美濃岐阜13万石の領主で岐阜城を本拠としていた(p29)

・毛利を落としていなかった秀吉は、宇喜多直家が死んだとはいえ、宇喜多家を捨てられずに、秀家をかわいがった(p146)

・宇喜多家を去った、戸川・岡は、家康に仕えて、備前を押さえる手助けをした猛将たちが敵に回ることになった(p151)

・前田利長は、家康に討伐すると脅されたとき、最初は加賀で戦うつもりだったが、秀頼が味方してくれないことがわかり、方針を変えた。利家亡き後、若い利長が大老として大きな顔をするのを他の大名は好ましく思わなかった(p153)

・朝鮮から戻った大名は皆、戦いに飽きていた。そこに家康はつけこんで、婚姻による縁、戦費の返済に苦労する大名にお金を貸して恩を売った(p156)

・毛利家を守る吉川家は、もともと豊臣嫌いであった。吉川広家の父、元春が高松攻めのとき、織田信長が死んでいることを隠して和議を結んだ秀吉を不誠実と嫌っていたから(p164)

・家康が堂々としていられるのは、秀頼が出陣しないから。秀頼の軍勢でなければ、三成の私兵として討ち取る理由ができる(p168)

・勝った家康は秀頼を罰しはしなかったが、豊臣家の収入の中心である全国の鉱山を取り上げた(p177)

・大谷吉継は、小早川勢の裏切りは予想できたが、毛利方の、脇坂・朽木・小川・赤座(大谷の与力6大名のうち4大名)の総勢二千の裏切りには抗せずに、陣を乱した(p198,258)

・どんな得物を操る際も、身体に力が入るとダメ。力を抜き身体の動きに合わせるようにして使う必要がある。無駄な力が入っていると、己が身体で重さや衝撃を支えてしまい、相手に威力が伝わらない。身体の動きで槍を振ってはじめて威力のすべてが伝わる(p203)

・北政所は、実子がないせいか多くの子女に愛情を注いだ、家康から人質に送られた秀忠も、実子のごとく慈しんだ。(p227)

・毛利家の跡継ぎになっていたかもしれない秀秋は、小早川家の養子として迎えられ、家格も上がり、小早川隆景は権中納言となり五大老の一角にまでなった(p229)

・秀秋と家康が親しくなったのは、旧領に復した貢献者という以外にも、学問(実学と蓄財)において共感したから(p245)

・小早川秀秋は、多くの事業(総検地、寺社領の整備など)を、秀詮(ひであき)という名で行った(p264)