・石田三成が決起し、しかも豊臣の武将に敗れれば、徳川は豊臣秀頼に手を出さない、さらに毛利は徳川と長期戦をして天下を分けるつもりであったが、石田三成が一度の戦いで敗れれば、もはや毛利は徳川と戦うことはかなわなくなる、さらに黒田長政も同様となり、徳川・毛利・黒田がにらみ合うことになる(p36)
・家康は、豊臣家の家老職としての権利を利用して「天下静謐のため謀反人の上杉景勝を討つ」と称して大名衆を動員している、大坂には彼らの妻子が残されている(p95)
・松平下野守忠吉は、家康の4男で、この時は武州忍10万石の当主である、家康の後継者秀忠が信州上田で足止めを食っているため、忠吉が全軍の総監となり、舅にあたる直政が後見役に任じられていた(p117)
・彦根城博物館にある「関ヶ原合戦図屏風」には、屏風のほぼ中央僅か下に、笹の生木を差し物にして呆然と立つ、可児才蔵と引き退く宇喜多勢を追う仙谷久勝つの姿が、はっきりと描かれている(p129)
・大谷吉継は、調略などではなく、ただ仕官を誘っているような気安さで言った、小川祐忠は寝返り(徳川→豊臣)の確約をしてしまった(p151)
・脇坂安治は早くから東軍へ内通し、開戦の際には必ず寝返ると確約していたため、淡路洲本3.3万石から伊予大洲5.3万石へ加増された、だが残りの3将は事前に旗色を明かにしなかったので、朽木は減封、小川および赤座は没収改易された(p158)
・大久保平八郎の初陣にて、家康(当時元康)が怖くないのかという問いかけに対して「怖がっていくさに勝てるのなら、怖がりもいたしましょう」と答えた(p173)
・永禄6年に元康の嫡男と信長の娘の婚約が成立、これを機に、元康は今川氏との断交を内外に示すため、義元より拝領の「元」を廃し、名を家康と改めた(p186)
・西軍諸侯から没収した領地は600万石以上、徳川家は250→400万石となり、全国に設けられた豊臣家の直轄領(蔵入地)を廃止したので、豊臣家は事実上、65万石の大名に転落した(p247)
・戦は第一に速度である、それは情報網によって生まれ、兵站によって支えられる。必要なのは緻密な計算、膨大な整備作業、そしてばらまくべき財である・進路上の村々で褒美を約束、働き手を確保しないと道ひとつつくれない。夜間に火を焚き、替え馬を置くのにも人手がかかる(p254)
・ただ消耗し村や町を荒らすだけの戦はすべきでない、勝つことは富むこと、それが秀吉の考えかた。天下という大いなる視野を持てたからであり一国一領の安泰しか考えないものほど荒らすだけの戦をする(p255)
・大谷吉継は関ヶ原戦いの前に2つの大きいことをした、1)前田家を翻弄し、あとを丹羽長重にまかせて前田家を参陣させなかった、2)東の徳川(秀忠軍)を足止めさせた、娘婿の真田信繁と共謀した(p259)
・大谷吉継は堺衆との間で、根気よく調整を続けた、改革の意図と将来約束される利益を理解してもらった。三成と大谷吉継が組むということは、推進と調整、二人の息はぴったりと合っていた(p266)