・1914年から1918年にかけて行われた第一次世界大戦は、国家の総力をぶつけ合う 総力戦の時代を切り開いた、 それまでの戦争が戦場での軍事力の衝突に重点を置いていたのに対して、総力戦 では国家全体の動員が重要となった、男性の兵士だけでなく女性や子供 高齢者を含め 社会全体が戦争に組み込まれるようになり、 国力や資源の多寡が戦争の勝敗を左右する決定的な要因となった (p37)
・第一次世界大戦後のパリ講和会議においては、民族自決の原則を掲げる形で、オーストリア ハンガリー帝国、 オスマン帝国 の解体が行われ 多くの民族国家が新たに誕生することになった、 しかしこの原則は 東ヨーロッパ地域に限定されて適用された、アジア ・アフリカにまで広げてしまえば 列強が保有する植民地の独立を正当化することになりかねなかったからである (p40)
・日中戦争が始まる 以前から東南アジアのほとんどが 欧米列強の植民地であった、現在のベトナム・ ラオス・ カンボジアはフランス領インドシナ、 インドネシアはオランダ領インド、 フィリピンは 米国、 マレーシア・ シンガポール・ ビルマは英国の植民地 ないし勢力圏出会った(p43)
・あの戦争の形式的な 始まりは 1941年12月8日であるが、 実質的な 始まりは 1937年7月7日である、 日中戦争以降 日本は大陸で長期にわたる戦争状態に突入していた (p57)
・歴史を振り返る意義は過去を美化することでも 糾弾することでもない、重要なのは なぜ当時の日本がそのような選択をしたのかを深く理解し 我がこととして捉え直し 現在に繋げることにある (p59)
・日英同盟の執行についても 第一次世界対戦後の国際協調的な外交の潮流の中で生じたものであった、ヨーロッパでは ヴェルサイユ条約 を基盤としたヴェルサイユ体制、 アジア太平洋地域では ワシントン会議 を契機とする ワシントン体制が築かれることになった、こうした流れに逆らって 日英のみで 二国間 同盟を維持し続けるという選択肢が現実的に存在していたとは考えにくい (p69)
・確かに 日本は戦後貿易立国として経済成長を遂げたが、 それは東西冷戦の始まりと、日本が西側陣営に組み込まれたことが大きく影響している、米国は日本を資本主義陣営の防波堤と位置づけ 盛んに経済援助や技術移転を行った(p79)
・日本は欧米に対等な扱いを求めながらも、現実には人種的 文化的な差別や偏見に直面し 屈辱や疎外感を拭いきれなかった。 だからと言って アジアに対して同法として接しようとも今度は朝鮮や台湾を植民地支配しているという事実が障壁となり「 欧米と何が違うのか」という厳しい視線を向けられることになった、こうした 分裂した自己認識は近代日本の アイデンティティの中核をなしていた、 そしてそのねじれを一挙に 解消したのが 日米開戦 であった、この時日本はアジア主義に大きく舵を切り「 大東亜新秩序の建設」という大義名分のもと 欧米という「 邪悪な存在」に立ち向かう「 正義の担い手」という自己像を打ち立てた。 だからこそ大東亜戦争の開戦は、少なからぬ日本人にとって「スカッとする瞬間」として受け止められた (p112)
・2023年 岸田 首相が ウクライナの首都 キーを訪問した時、 戦地への首相 訪問が戦後初 だと報じられた。 なぜ 史上初 ではなく 戦後初 だったのかといえば、 東條の外遊 があったからである (p129)
・ オランダは「強制栽培制度 (1830-1870)」から 中央政府の税収額の50%以上もの利益を得ていた、 この制度のおかげで「過去の巨大な債務を正常レベルにまで戻し 1863年の奴隷解放に際して 奴隷 所有者に保証金を支払い、 全国に鉄道もを押し広げ 所得税の導入を1893年まで延期することができた」 (P169)
・ タイは日本の選挙区が悪化すると露骨に日本との距離を取り始めた、 ピブーン首相は 1943年11月の大東亜会議には出席せず 代理として親王を 派遣しただけであった、 日本が 配線すると「宣戦布告は3人の接種を全員の同意を得ていなかった」として 1945年8月16日、 その無効を宣言した、 英国はタイの主張を 認めず 報復的な賠償措置を課 そうとしたが、 米国がタイを自陣営に引き入れたいと考えていて 英国に対して外交的に働きかけ 最終的に宣戦布告は無効だったということになった (P203)
・日本人 及び 日系 米国人 12万人が強制的に住まいや職を追われ 最大で4年にわたって 収容所に隔離されたことがあった、 こうした措置は ドイツ系 やイタリア系移民にはほとんど 適用されず 人種差別として 土地に大きな 批判を受けた。 1988年には レーガン大統領が公式に謝罪し 生存者への保証金 支給が決定された、 それを 国立アメリカ歴史博物館では展示されている(P262)
・米軍は硫黄島や 沖縄の戦いで膨大な被害を受けていた、日本軍による 米艦船への 特攻攻撃では、わずか2ヶ月で 過去2年間よりも多くの米兵が死亡した、100万人以上の兵力が日本本土への進行に向けて動いていた時、 1945年8月6日 最初の原爆が広島を壊滅させた、 これが 国立アメリカ歴史博物館に書かれている(P263)
・本書の結論ははっきりしている、 それはあの戦争を語る際にあの戦争「だけ」に焦点を当てるべきではない、真珠湾攻撃や特攻隊といった個々の現象について理解を深めることも重要だが、何よりも大切なの、それらに至るまでの歴史の過程や構造を見つめることである、 あの戦争は日本の近代史という長い時間の流れの中に位置づけて初めてその全体像が 立ち上がってくる、そうした視点に立つことでようやく あの戦争は過剰な工程にも否定にもならず 落ち着くべきところに落ち着くのではないか、 そしてそれが可能なのは戦後80年という時間を経た今しかない(P275)